ルーファ・オーデルンの手記

SFファンタジー中篇
著 岩倉 義人

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9 黒い川のほとりで

 しばらくしてミュール氏が、天幕の中へと戻ってまいりました。
「一応終わったよ。ルーファ隊長。でもこの分じゃ潜るのは明日にするんだろ。」
 私は彼に直径1・5メートルの縦穴の掘削の指揮を、頼んでいたのです。
「ああ。皆、恐ろしく疲れただろう。飯でも食って、今日は早めに寝ようか。」
すでに砂漠に入ってから35日目、都を発ってからは、80日あまり経っていました。そして、ついにステファンが、あれほど恐れていた黒い川の砂漠の、気の遠くなる穴に降りて行く時が来たのでした。
私とステファンは、人皮豚の黒皮を使った、皮の鎧を全身に着込むことになっておりました。これには、500年ほど前の、ウルベクよりもずっと前の代の、ロウハイドと呼ばれる99位神官の幻力が、かけられていて、その幻力は現在でも消えることのないものでした。
 イルヌーの文書によりますと、黒い川の近くには、普通では考えられない密度の妖霊気が霧のように立ちこめていて、通常の魔防護ぐらいでは、すぐに気が狂ったようになって、自分で喉を掻き切ったり、または仲間の目玉に食らいついたりしてしまった者も出てきたそうです。そういうことらしいですので、現在、私どもの国のジス国で、一番の精神防壁を作り出すことが出来るこの皮の鎧を、神官殿より借りてきたのです。その鎧を借り受ける時に神官殿は、どんな気候にも耐えられるぐらいの幻力をその上に重ねてくれましたので、この鎧を着るのみで、砂漠の穴の中に降りることが出来るのです。そして、その幻力の副作用に耐えられるように私たちは、数日かけて精神を、緑眼石のように固く、半透明にしてきたのです。
人皮豚の黒皮鎧 本来は人間の皮膚が一番幻力を吸着させ、長持ちさせるのだが、人道上の理由により現在は行われていない。人皮豚の皮の組成は人間と同じであるはずなのだが、なぜか強い幻力には耐えられずに、ぼろぼろに腐食してしまうことが多い。しかし、ジス国の養殖の初期に、ゲル地方で捕獲された黒い皮を持つ原種のみが幻力にもよく耐えたのだが、人工繁殖させるうちに皮膚の色が淡色化して人工皮膚にのみしか利用できなくなってしまった。
それから、私たちは軽く腹ごしらえをした後、鎧を着込み、ヒビ入り結晶を入れるための保存容器やその他の道具類入れました背負い袋を肩と腰にしっかりと結わえ付けて、天幕の外に出ました。
「ミュール氏。それから、、みんな、夕方になるまで後のことは頼んだよ。」
「ああ。大丈夫だ。任せといてくれ。」
 私とステファンは腰の金具に鉄紐を固定して、その静かな、全身の血を捧げるようにして、黒い霧が無音に待っている、縦穴の中に、ゆっくりと吊し入れられていきました。私は下りながら地上を返り見て、私の中の橙色をしたうすぼけた色の光の弾が、深黒の中へと打ち出されていくように感じ、思わず皮手袋の手で、震えた拳を作っておりました。
 しかし、しばらくするとその光の弾も消え失せてしまい、肩に付けた永遠光ランプの光のみが辺りをほの暗く照らすようになりました。すると、黒い川の真上の空洞に達したようで、合図のもう一本の細い鉄紐を軽く引っ張りました。
 それからステファンは、腰から金槌と太釘を取り出して空洞の天井にあたる所に、ぎんぎんと金を打つ音を響かせて、釘を打ち込んでいきました。この釘に鉄紐を伝わらせて、丸い天井に沿って進んでいき、丁度黒い川の縁にある棚の上に降りようというのです。
 30分ほどして、私とステファンはうまく、棚の上に降り立つことが出来ました。黒い川の空洞の壁や縁の棚は、その川の水の恐ろしいような冷たさに凍り付いていて、鉄のように固くなっておりました。川の水は固まりかけた血液のように粘性を持っていて、幅は目で測ってみたところ15メートルほどあるようでした。流れはほとんどなく、器具を入れて測ってみると分速1メートルも無いようでした。
「さっそく取り掛かろうか、ステファン君。」
マスクと頭巾を付けていたため、その表情は全く分かりませんでしたが、頷きあって、仕事を始めました。黒い川の水を一定量、鉄のしゃもじで底の方からすくい取り、小さな電動式の分離機にかけてヒビ入り結晶を探すことにしておりました。川の水の深さは0・9メートルしかありませんでしたが、川に落ちることは途方も無く危険でしたので、川岸に杭を打ち込んで、体に結わえることにしました。
それにしても黒い川の様子といったら、もう二度と見たくない、私の内臓の全てと精神の中の青い石を、猛烈に溶かされそうになるようなもので、もし黒皮鎧を着ていなければ、すぐにも気が触れてしまって、自らの喉を締め殺してしまっていたでしょう。念の為に常に自分自身でも魔防護を施さねばなりませんでした。
 私とステファンは20メートルほど離れて、濾過作業をしておりましたが、ときおり、
「ステファン君、大丈夫かね。」
「ええ。大丈夫です。」
と、大声で呼び合わなければ、自分たちが何をしようとしているのかさえ忘れてしまいそうなる、胸苦しさに絶えず襲われ続けていました。
そこまでして、3時間ほど濾過を続けていましたが一粒のヒビ入り結晶さえ見つけ出すことが出来ませんでした。私たちは普通以上に、死にたくなる程の、悲嘆に暮れてしまい、それ以上作業を続けるのは非常に危なくなりましたので、一時、地上に戻り一休みをすることにしました。
 それから、川の空洞の上の縦穴の入り口の所まで私とステファンは天井に打ち込まれた紐をたどり、自分の力で体を持ち上げて登っていきました。そこから地上の縦穴の出口までは、相当の距離がありますので、上の神童子たちに鉄紐で引っ張り上げてもらおうと合図の細紐を、二度軽く引いたのです。
 しかし、普通ならば番をしている神童子が即座に、やぐらに取り付けてある鐘の音を聞きつけて、紐を使って、返答を送って来るはずだったのですが、しばらく立っても、何の合図もありませんでした。
 私は、川の空洞の天井に高く、袋のように宙吊りに金具で固定されたまま、少しの間、すぐ近くで同じようにぶら下がったままになっている、ステファンの、頭巾の影から覗いている青暗い目を、無言で見つめていましたが、
「なぜだか応答がないよ。もうしばらくしたら、自分たちでよじ登るほかはないな。」霧の息を吐き、そう眩きますと、彼は黙って頷きました。
しかし、私達はすでに、その深い穴をよじ登る余力など、ありませんので、そうやって、私達という、腐った肉の袋が凍り付くまで、いつまでも吊され続けるしかしょうがないという気分にさえなっていました。
5分ほどしてもう一度、紐を、狂ったように何度も力任せに引いてみますと、今度は二回、つんつんと上に引かれて、やっと合図が来ました。
 それから、私とステファンは、太い鉄紐にぶら下げられて、ようやくその、内臓が振じり切れそうな、脳髄の中心が煮立ってしまいそうな、気違いじみた世界から、地上の光の輪の中へと助け出されました。
 なぜそれ程、合図が遅れたのか、ということに付きましては、ミュール氏の話によりますと、どうしてだかは分かりませんが、また再びミグルがおかしな事を口走り、大声を上げながら、ハクサに殴りかかり、締め殺そうとしたのでした。他の仲間は驚いてしまってすぐに押さえ付けようとしたのですが、恐ろしい狂牛のような力でそれを振りほどき、だらだらと醜く、よだれを垂れ流しながら、下半身を固くして、ハクサを犯そうとしたそうです。
余りにも手に負えなくなって、ミックは外で、黒い川への縦穴の番をしている、ミュール氏とチアの元へ這いずるようにして、駆け寄ったのでした。
 それからミュール氏は、ミグルの様子を見取り、すぐに腰に差していた、シファーのナイフを手に取ってミグルの肩に素早く軽く刺したそうです。ミグルは、きいきいと陣き声をあげながら、傷口を押さえていましたが、そのまま気を失ってしまいました。
 そして彼を、急いで縛り上げているうちに、私どもが穴の底から合図を送ったという訳でした。
私は、天幕の中で縛られたまま横になっている、ミグルの頭を軽く爪先で小突き、叩き起こしました。
「おいミグル、また、黄色い龍に取りつかれたとでも言うのかよ。」
ミグルの猿ぐつわを引き千切るようにして、ずり下ろしてやりますと、
ミグルは仰向けに寝たまま、妙に、にやついた口元をしながら、
「今度は違いますよ。ルーファ隊長。そいつはあなたにもう、差し上げましたと言ったじゃないですか。」
「ほう、そう言えば黒い川の穴の中で、そんな奴を、見たような気がするな。
しかし、もう一度、奴を見たら、シファーと同じように焼いて、どろどろとした灰にしてやる。その時、お前も、まだおかしな事をしようとしてたら、
そいつといっしょに薄汚ない丸焼きにでもしてやるよ。」
ミグルは暗く灰色の、取り付かれたように白い目を宙に遊ばせながら、
「丸焼きにでも、煮豚にでも好きにして下さい。」
と、楽しそうに眩くものですから、私は強く、彼のぶよぶよとした脇腹を蹴り上げてやりました。彼は唇に血を滲ませながら、怯えたように身を震わしておののきました。
「今すぐそうして下さい。僕は気が狂って、内臓を黄色い龍に食われた時から、変になって、止められないんです。」
「安心しろ。そのうちなんとかしてやるさ。多分、君は何か面白いものに生まれ変わろうとしてるのかもしれないな。」
それから、私は疲れ果ててしまっていたのか、急に倒れて横になり、ミグルの側で深く、眠り込んでしまいました。