ルーファ・オーデルンの手記

SFファンタジー中篇
著 岩倉 義人

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3 ステファンとの出会い

 私が彼を助手にしたのは、もう五年も前の事で、コメールオルの湿地の発掘から一時、都に戻った時の事でした。それまでの間は、彼の父親のペジテル・オーグを15年の間、雇っておりました。しかし、その湿地に出かけていました際に病気にかかってしまい、馬車にて急きょ帰還させなければいけませんでした。私はその時、彼が都に着いた20日後ようやく首都ジスに戻ってきました。予想以上に発掘が長引き、さまざまな事を神官殿と相談しなければならなくなったのです。
 それから、神官殿に御伺いを立てましたのち、すぐに神童子の親方たちと神官殿を交えた会合を始めました。半日ほどいろいろと相談しまして、やっと、一段落付きましたので、ペジテルのもとを訪れることができました。
 やはり、湿地の病毒は強いらしく、彼は寝室に寵りきりになっておりました。彼を診てくれている神官医によりますと、コメール湿地の病毒というものはカビの一種により、もたらされるもので、皮膚に潰瘍状の病変を作る作用を持っているそうです。
 ペジテルはその時、60を越える歳でしたが、もともとは、つやの有る良く日に焼けた、褐色がかった肌をしておりました。しかし、私が病室にいる彼を見舞った時は見る影も無く、樹皮のように皮膚が黒変して硬くなって、痩せて枯れ木のように、ただ、横たわるのみでした。彼は苦笑いをしながら、「神官医のやつ、俺の様子が面白いらしくてね、いちいち写真ばっかり撮ってやがるんだ。」
と、シャツをめくって、彼の恐ろしい胸を見せてくれました。私は笑ったものか、どうか分からなくなって立ち尽くしてしまいましたが、
「これこそ真の進化、メタモルファだよ。」と、今にも死んでしまいそうな気の狂いそうになる、自分の姿をも皮肉の種にしてしまう彼を見ていると、なぜか、少しほっとしてしまいました。
「どうだね、ドブさらいの調子は。コメールの方じゃ今ごろイソギチョウが抱卵しているんだろうな。」
猛毒のコメール湿地にのみ生息している、シギ・チドリの一種。小さい針のようなくちばしの黒い背、白い腹、・鮮やかな黄色の胸をした、体長15センチほどの烏。夏に営巣、抱卵する。
「俺の無精ヒゲと、くしゃくしゃの頭を見れば分かるだろ。毎日、鉄の棺桶の夢ばかり見てるよ。」
 その鉄の棺桶と申しますものは、その当時、ジスの主要作物の粟に流行っておりました、エスヌ風邪の特効薬が入れられているとダオーヌ文書の中で伝えられている鉄器であります。その埋もれている場所はコメル図書博物館の跡地に違いないと踏んでおりました。
ダオーヌ文書コメールオル国立図書博物館の19代目の館長ダオーヌ・デュレの著した博物全書、収蔵品目録の総称。その目録の中に、エスヌ風邪と同じ症状の病気の特効薬の完成の記念として、その試薬をどんな環境にも変質しない金属の容器に入れ半永久的に収蔵する、という記述があったため、ルーファの隊が派遣された。その文書は、ジス中央図書館に保管されているが、コメールオルの国自体は300年ほど前の大洪水によって全土が沈み、伝染病によって壊滅的な被害を受けた。その後、地形が変化し、近くを流れるルオル川の河口が泥土によって閉じられてしまったため、川の水が海に排出される口が無くなり、コメールオル全土が、永遠に湿地化してしまった、それのみなら、良好な農地となったであろうが、様々な治療不能な伝染病が、いつまでたっても治まらなかったため、国土全体が見捨てられた。
コメールオル国内の住民は移住を余儀なくされたが、周辺地域ではコメールの民が伝染病の感染源になるのでは、と恐れられたため武力によってまで入国を拒否された例が多いと聞く。
 その不満の表れか、コメール王家や貴族、知識階級の者は他国に受け入れられた後も、何者かによって暗殺され続け、100年をかけて全ての血筋が根絶やしにされ、現在へいたる。
 なお、ダオーヌ文書は大洪水の32年前にコメル図書博物館の20代目の館長のイヌ・デュレ氏がジス国を訪れた際に記念として持たらされた。
「明日から、また、30人ほど引き連れて泥沼の中でゾンビごっこでもしてくるよ。」
そう話を締め括って、私はそろそろペジテルの部屋を離れようと思い、腰をゆっくりと上げました。それを見てペジテルは、薄笑いを浮かべたように顔を引きつらせながら、上擦った声で急いで付け加えました。
「そういやあ、魔化学の専門家は見つかったかね。俺の代わりになれる奴なんて、めったにいないだろ。」
 それを聞くと私は、急に息ができなくなって、めまいがしたような気分になってしまいました。コメール湿地では、主にペジテルが伝染病に対し魔法防護を行っていたのですが、余りに忙しく、彼自身の防護を一番後回しにしてしまったために、彼のみが伝染病にかかってしまったのです。通常は私と彼の二人で魔防を施すことになっていたのでしたが、隊員の一人が湿地の泥沼に埋もれて生き埋めになりそうになっているのを、手分けして引っ張ったりしているうちについつい魔防の方を彼にまかせきりにしてしまい、過度の負担をかけてしまったのです。
 これ程までに、湿地の毒が強いとはまったく予想しておりませんでしたので、何としても、もう一人魔化学の専門家がそろうまでは、出発を延期したほうが良かったのかもしれません。私が首都ジスに戻った時は、やっと増援で駆け付けて来た魔化学家に留守をまかせてきました。一週間程なら一人でもしっかりとした魔防処置ができるのです。しかし、もしペジテルが元気でさえいてくれたなら、魔防と発掘の指揮とを交替で取れたのですが。
 また、私が都に呼び戻された本当の理由と申しますものは、余りに発掘が危険で見込みの無いものなら中止した方が良いのではないか、と、神官殿が手紙で通達されてきたからであります。そして、都に居ります間にあともう一人、魔化学家が見つからなければ、この先ますます発掘が困難になるだろうという事が予想されました。そういう事を考えつつ、私が黙りこくってしまったのを見て、
「俺の知り合いになかなかいかした魔工家がいるぜ。」
と、部屋の隅の方に軽く、目配せをしました。
「腕は保証するよ。なんせ、俺の息子だからな。」
なるほど、そこには先ほどから、暗い目をした肌の色の青白い青年が、一言も何も申さずに、座っておりました。
 しかし、自分の名前を、「ステファンです。」と妙に自信のあるような、くぐもった声でつぶやいた時、彼の父親の周りにかけられている、見事な魔防処置が、初めはペジテル自身がかけたものだと恩い込んでおりましたが、それはステファンによってかけられたものだと悟りました。
「君は魔工大生かね。」
「中央魔工科大の2年生です。」彼の神経質そうでいて、年の割に落ち着いた物腰をじっと見ていると、なにか、怖気のようなものを感じてしかたがありませんでしたが、父親の性格とは似ても似つかない彼を、やはり魔工家がどうしても必要でしたので、連れて行く事にしました。
「悪いが明日には出発だからな。旅は長くなるだろうから、十分に仕度をしておいた方がいいぞ。」
「はい。」

 そうして、次の日にはコメールオル湿地にステファンと共に旅立って行ったのですが、その半月後にペジテルは亡くなってしまいました。その時ペジテルを見取った神官医の話といいますのが、まことに奇怪であリまして、信じ難いものなのですが、参考までにお話ししておきたいと思います。
 その神官医は、魔法防護膜の外側からペジテルが、息をしなくなったのを見取りまして、防毒マントをちゃんと着ているのを確認してから、魔防膜をそっと潜り抜け、ペジテルの脈を取ろうとしたそうです。
 そして、完全に木の精か悪魔のようになってしまった彼の手を取った時、なにか彼が身をよじって、小さく呻き声を上げたように感じました。驚いた神官医はもう一度、ペジテルの心音を聞いてみようと彼の胸をはだけさせてみました。すると、彼の胸から下腹部にかけてナイフで切り付けたような傷が現われたのです。そんな傷は今までにはありませんでしたから、不審に思っていると、その傷口が生きているかのように震えながら、だんだんと広がっていきました。
 そして、ペジテルの手そっくりの悪魔の手がその中から五万と這い出してくるのを神官医は見たのです。その手は腹から飛び出した瞬間には熊の手ほどの大きさがありましたが、神官医に近づくにつれて小さく縮んで小人のような手になって彼に飛びつくのでした。彼は気が狂ったようになって、火蜜石を利用した火炎装置で結界の中を全て、焼き払いました。
 彼はその後、自分が患者を焼き殺したことは正当であると主張しました。ペジテルの体の中の毒を持った菌が意識を持って襲い掛かってきたのだと。

 しかし、ただのカビの薗がそのように変異するとはどうしても、考えられませんので、結界中に入った時、その神官医の防備が不十分だったのでしょう、彼の体内にはいった菌が幻覚作用を引き起こしたのかもしれません。ペジテルの呼吸や体温、脈拍を記録していた計器は最初は彼の自然な死を記録していましたのが、呼吸の止まった数分後に急に体温だけが異常に上昇して、計器の針が振り切れてしまっていることから、その事が推測されるのです。

その数ヶ月後、私とステファンはコメールオル湿地で最終的には鉄器をうまく見つけたのですが、それには大変な苦労が必要とされました。しかし、ステファンの魔工学の独創的な処置のおかげもあってうまくいったのです。今、思えば私たちも大変な苦境の中にいたものです。最初はステファンともその旅かぎりかと思っておりましたが、最後には彼の技術を私はすっかり信頼するようになっていました。また彼の静かな精神的なものも私にとって不可欠になってしまったのかもしれません。
そういう訳で私たちは機会があるごとに何度もいっしょに旅をしてきたのです。