魔法国消滅 ファンタジー小説 : 著 岩倉義人

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1 暖かい氷の湖

 ロハイス・ラカ・ネンドリーは「暖かい氷の湖」の水面のすぐ近くに立っていた。湖の表面には分厚い氷が張っていて、ほんの少しだけ中が透けて見えた。その中をじっと見つめていると巨大で真っ白なうごめく影が見え始めた。
 その巨大な影は所々出っ張っていて鋭い氷の刃の塊にも見えた。だがそれは実際にはもっとしなやかで美しかった。それは巨大な竜だった。
 竜は湖の中にいたままで一向にそこから出る気配を見せなかった。それに、竜が湖から出たいと思ってもその願いがかなう事はなかった。湖には常時どんな季節でも分厚い氷が張っていてその下に竜が閉じ込められていたのだ。
 ラカは自分のすぐ下にある氷の面の中に薄ぼんやりと白い竜がうごめいているのをただ静かに見ていたかった。これまで通りに。
 彼女は何もかも忘れてしまいたかったが、振り返るとかなり離れた所から彼女の家臣たちがこちらをにらみつけているのを感じた。
 その家臣たちのそれぞれにやつれた姿は彼女がこれから何をしなければならないのかを思い出させた。彼らの目は恐怖に満ち、それに狂気のような希望にも満ちていた。
 彼らに従わなければラカは殺されてしまうだろう。
 結局家臣たちが女王であるラカに望んでいることは彼女自身が生きていようがいまいが実現可能だった。それならばいっそ彼らに殺されたほうが楽ではないだろうか。
と、ぼんやりする頭の中でラカは考えていた。
強大な魔法の力を持つとされるタミフーバルの女王とはいえ、家臣に逆らうことさえできなくなってしまった。彼らの着るコートの下には銀色をした小さなナイフがぶら下げられているのだろう。そのナイフに光る自分の血がラカには見える気がした。
「彼らのせいにしないで、全ては自分で決めたことじゃない。
 本当に悪いのは彼らではない。今ここで魔法の力を全て捨てなければ全ては終わってしまうだろう。三千五百人の命と引き換えにして竜を生かしておくことは出来ない。」
そう思うとまたラカは湖の氷の下に住む竜の方に向き直った。
 竜はケリーノ・リナクリーという名前だった。その名前は彼女しか知らなかった。
ラカはそっと氷の上に降り立つと「ケリーノ・リナクリー」と静かに唱えながら湖の真ん中の方に歩き始めた。
 竜は彼女の真下にいて常に寄り添うように泳いで行った。
「ここまで来たらもうだれにも聞こえない。暖かい氷の湖の氷が全ての音を吸収してしまうもの。だからあなたとだけ話すことができる。リナクリー。今までほんとにありがとう。
 あなたのおかげで私は力を得たのだし、女王になることもできた。」
そういいながら彼女は苦しくてしかたがなかった。ただ早く話とそれにやるべきことを終わらせたかった。
「けどね。それももうお終いなの。あたしだってお終いだし。それにあなただって。
あなたは何百年もの間、氷の下にいて私たちに力を与え続けてくれた。
 それはとても素晴らしいことだった。これからだってきっとそう。私はずっとそう信じてきた。
 だけどね。リナクリー。私たちはあなたの力にはもう耐えられない。魂の器がひしゃげてばらばらになってしまいそうなの。」
そこまでいうとラカはほんの一瞬目をつぶって変わりつつある自分の国民たちの姿を思い浮かべた。魂の器が壊れた人間たち。それが魔法力を持ち続けていたらどうなるのだろうか。そんな実験を神がしようとしているのかもしれなかった。
 魂の器の壊れた者の目は赤と青にまだらに光っていた。彼らは自分の持つ全ての力を使って周りの人を殺し始めた。ずっと高位の魔法力を持つ魔法使いにだって彼らのことを止めることが出来なかった。
 最後にはラカは自分から彼らのところに出向いて行って、彼らの魂の器を完全にこなごなにくだかなければならなかった。それには彼らに割り振られているリナクリーの力を無理に遮るのではなく逆に極大値の力を送り込んだのだった。
そうすればもともとがたがたになっていた彼らの魂のフレームは吹き飛んでしまって、あとには抜け殻だけが残った。
 残された生きた死体はガムシスの鉄槌により肉の塊にされたのち、地中に埋められた。

 ラカはそこまで考えて余りにも耐えられない感触がしたので眩暈がした。
「どうやってこの子に説明したらいいのだろう。私たちがだめになっていく理由が自分たちが魔術師であることそのものにあるということを。
 でもいま力を捨てなければ、本当に恐ろしいことになってしまう。自分たちの国の中で騒ぎがおさまればまだましだけど、周りの国を全て滅ぼすことになってしまうかもしれない。」その可能性が極めて高いと魔術師の最高評議会は結論を出した。
 ここ十年の間議決を必要とされる問題が存在さえしていなかった最高評議会が出した結論とは自分たちの魔法力を全て捨てるということだったなんて。
 ラカは本当に信じられなかった。だが、彼女の中にある自分自身の狂気の芽が育ちつつあるのがひしひしと感じられた。
「私自身がだめになったらいったいどうなってしまうのだろう。それはリナクリーを裏切ることに繋がってしまうだろう。彼の力を誤ったことに使うわけにはいかない。」
 彼女はもう一度決心を固めた。
 終わらせなくてはいけない。
 彼女と竜は暖かい氷の湖の中心部分にたどり着いた。暖かい氷の湖とはよく言ったものだ。彼女の額には汗が噴き出していた。こんなに暖かいのに氷が溶けることがないのはどうしてなんだろう。それはきっと竜自身が閉じこもろうとして自分で氷を張ってるのではないだろうか。そのことに、やっとラカは気づいた。
「大丈夫よ。リナクリー。私はあなたを死なせたりなんかしない。
タミフーバルが滅びてしまっても構わないし、それにほかの国の人が皆殺しになっても構わない。
私はあなたのことを守ることに決めたの。」
 そうつぶやきながら、彼女はコートの中に隠されていた銀色の小さなナイフを取り出した。それを使って自分の左の脇の下の部分のシャツに穴を開け始めた。
 その感触を楽しみながら、自分はなんて嘘つきなんだろうと、心の中で叫んでいた。
 十分に穴が開くと彼女は指先を使って自分の脇の下の皮膚を触った。小さな丸いこりこりした塊があるのが感じられた。
「私の産まれたところ、そこは小さくてとても広いところ。
 そこには鉄の馬が何匹もいて、私の頭に生えてきた産毛をおいしそうにむしゃむしゃ食べてしまったの。だから今みたいに私に長い髪の毛が生えたのは、彼らがみんな恐ろしいところに追っ払われたあとのこと。」
彼女は頭に浮かぶでまかせの物語を呟きながら、自分の脇の下にナイフを突き刺した。小さな血の粒がそこから何滴も滑り降りて、真下の半透明の氷をうっすらと汚した。
しかし、最後の一滴は真っ赤ではなく白かった。彼女はそれを丁寧に受け取ると、自分のてのひらに転がしていた。
「これが私が女王になるときに埋め込まれた力。あなたと私の絆の正体。
 この魔法の真珠をあなたに返したらいったいどうなってしまうんでしょうね。
 あなたは辛いかもしれないけど、これでやっと私たちに従う理由を失う。
 いままでほんとにありがとうね。」
そう言うと彼女は竜の真上の氷のところにその真珠をそっと置いた。
 竜の灰色の目は最初何が起こったのか分からなくて好奇心に満ちていたが、しばらくラカのようすを見つめるうちにやっと理解したらしかった。
 自分がもう生きていけないということに。
 それでも竜は動じたようすを見せなかった。彼にだって彼なりの誇りというものがあるのだろう。真珠はゆっくりと氷の中を沈み始めた。
 そしてやっと竜のところに氷がたどり着くと、竜は口を開いて真珠を飲み込んでしまった。ラカは彼の体が半透明になっていくようすを静かに見守った。
私たちと共に生きてきた白い竜はこれで死んだ。私たちが生き延びるために彼のことを殺さなければならないなんて一体誰が信じるだろうか。
また、どうしてそこまでして生き延びなければならないのだろう? と、ラカは強く思った。
 湖畔の方を振り返ると歓声が聞こえてきた。暖かい氷の湖に張られている氷が消えかかっているらしかった。だから氷の音を吸い取る力が消えて家臣たちがことの成り行きを見て喜ぶ声が届くようになってきたのだ。これで自分たちがこれまでどおり生き延びられると素直に喜んでいる声がしていた。
 口々に叫ぶ声は何を言ってるのかはさっぱり分からなかったが喜びにあふれていることだけは確かだった。
 早く岸辺に戻らないと歩いて戻れなくなる。そうラカはぼんやり考えていたが、どうしてもすぐに戻るつもりにはなれなかった。

しばらくしてやきもきした一人の兵士が彼女のもとに駆け寄ろうとして、氷の上を渡り始めた。もうすぐ氷が消えるというのに。あんな重たい鎧を着て、泳げるはずないじゃない!
そう思って彼女は岸辺に向かって全力で走り始めた。
もう自分たちに魔法の力が消えてしまったんだろうかと思うと怖くもあったが、逆に解放された気分だった。これでやっと怯えることもなくなる!
そう思うと彼女は自然と笑い出していた。
彼女の耳の周りで緩やかな風の音がしていた。

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