30章
ロジアは限界以上に天井の白い清潔な蛍光灯の光を見詰めていた。その苦痛で自分の目が覚めていることに気付いた。彼は自分の上に羽根のように被せられているシーツの感触を確かめて、それを跳ね除けようとした。
しかし、今の彼にはそうすることさえ出来なかった。シーツが何よりも重いものに感じた。
今日は何日だろうか。
枕元のテーブルの上にはプラスチックの日めくりカレンダーが置かれているはずだ。彼の頭は動かそうとすると縛り付けられた様に痛みが走った。しばらく時間をかけて頭の角度をほんの少しだけ外側にずらすことに成功して彼はわずかだが気を良くした。それから、眼球を右目一杯に動かすと、ぼやけた視覚の隅に、白い箱を見た。そこには黒い染みと赤い染みが見えた。
「今日は日曜日か。ツェリトが死んだのは何曜日だったかな。」
ロジアは思い出そうと考えていたが、麻痺していく感覚の中でどうでも良くなってしまって、もう少し眠ることにした。
ロジアは夢の中でツェリトが自殺したいと思っていた時の感じを自分の事のように思い出して、懐かしそうにその苦痛を楽しんでいた。確かにロジアの中には自分が自殺をやり遂げて、無時間のスピードに飛び出して行った時のツェリトの感情が何度も繰り返しこびりついていた。彼はその事に嫌悪感しか最後には感じなくなったので、想像を止めようとした。しかし、うまく止められそうになかった。
ツェリトが死んだ瞬間には、グリセル・ゴトルヒンの感情の一部をロジアは嗅ぎ取ってもいた。その事をロジアは忘れ去ってしまいたいと強く願ってはいたのだが、その狂気にも似た感情は逆にゴトルヒンの事のみを考えることしかロジアに許さなかった。ロジアの中に彼女を殺すことをやり遂げたという疑似感覚が強く何度も現れていたのだった。
「疑似感覚だって?
今の僕にとってこれ以上の現実があるはずはない。」
ロジアは諦めて、シーツを顔の上まで引き上げて、何も見えないように目を覆い隠した。それでも、蛍光灯が白い霧の中でぼんやり二本の線を見せていて、その姿は消えなかった。
ベッドに身を横たえたまま、なぜツェリトが死ななくてはならなかったのか、考えていた。しばらくして、彼は枕元に延ばされて来ているインターフォンのスイッチを入れてつぶやいた。
「看護婦さん、聞こえていますか?」
しばらくの間、ジーという電気的なノイズが流れる。彼女たちは今は居ないのかもしれない。だが、かすれた女の声がした。
「はい、ロジアさん。どうかなされましたか?」
それが彼の聞いた、久し振りの人間の声だった。ロジアは一度だけ喉を鳴らすと言った。
「神官警察のレン・スコットに連絡を取って欲しいんだが。」
また返事まで数秒、間があった。
「ええ。ご心配なさらなくても大丈夫ですよ。あなたが目を最初に覚まされた時にもう連絡がされていますから、もう2時間ぐらい経ちましたし、もうすぐお見えになると思いますが。」
ロジアは少しの間、黙っていた。「奴らはそうやっていつも俺の事を見張ってやがるんだ。」彼はそんなことにもいらつきを感じた。
それを不審に思ったのだろう、それ以上待つのを嫌ったインターフォンの前の看護婦はもう一度聞いた。
「まだ何かご用がありますか。」
ロジアはまだ、日めくりカレンダーを確認していないことに気付いた。
「今日は何日だ?」
その若い看護婦らしき声は少し意外だったらしく、「え?」と言ったまま、しばらく返事が無かった。
「ええと、4月15日です。」
「そうか、ありがとう。」
看護婦の耳にはバツンという、患者が一方的にインターフォンの電源を落とした音が強くした。それを聞いて彼女は舌打ちを一度するしかなかった。
ロジアはまた頭を天井の方に向けると、ツェリトの意識に侵入したときに初めはこんなふうに声だけで話していたことを思い出した。
「そういえば、現実の世界で彼女が生きて動いているのを見たのは自殺する瞬間だけだったんだな。」
それから、数時間してレンが病室のドアを神経質そうに開けるのが聞こえた。ロジアが彼から聞いたのは、ツェリトが警察病院に運ばれたときには、出血のために既に死んでいたという事と、99位神官が引き続き彼にツェリトの実験の科学的な分析を頼むと命令があった事を伝えるのみだった。
ロジアはあと数日して動けるようになったら、その検死官に会いたいという事をレンに言った。レンは資料だけだったら別に渡してやるのにと思ったが、分かったとつぶやいた。
「そういえば、ツェリトの母親のリズはもう退院させたぞ。別にこれ以上拘束したってしょうがないからな。俺は行かなかったが、ツェリトは火葬にされて葬式も済んだらしい。
なにせ、お前が気を失ってから2週間は経っているからな。」
「そうか、もう退院したのか。」彼女はあの、ベッド以外の全ての家具が外に運び出されたあの部屋に戻って何をしただろうか。まず、彼女はツェリトの血の黒くこびりついたベッドのシーツを引き剥がしたに違いない。
でもその下のマットレスにも血跡が突き抜けて残っているのを見て、絶望してまた、そのシーツを乱雑に元に戻したかもしれないな。
それとも、そのシーツの血の跡の匂いを、自分でも気付かないぐらいの慎重な動作で2、3度嗅いだかもしれない。もしそうなら性的な興奮を得て、彼女の目はシーツの血の近くで黄色く光ったに違いない。それが彼女がツェリトに対して持てる、最後の優しさなのだから。
彼女はこの私の事を憎んでいるのだろうか? エテルキフは自問した。
レンは彼がベッドに座ったまま、物思いに耽ってしまったのを見て、
「お前は良くやったと思うよ。ツェリトの事は気にするな。あいつはどんなふうにしたって、必ずこうなるのを誰も防げっこなかったんだよ。
まあ、また来るから、ゆっくり休んでくれ。じゃあな。」
と言ってドアを素早い足取りで立ち止まる事もなく出て行ってしまった。
最後の方の言葉は背中を半ば向けかかっていたので、ロジアにはあまり良く聞き取れなかった。だが、それが逆にロジアの事を安心させたのだった。ほんの一時的な効果しかないのは分かりきっていたのだが、そんな事を彼は無視することに決めていた。