エテルキフ SF小説 : 著 岩倉義人

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24章

 ロジア・エテルキフのたどり着いた先はリズ・クファルマイヤーの入院している傷病局だった。彼はその芝生の所々剥げ落ちた駐車場に車を入れた。最後のブレーキを踏んだ時、小さく灰色の砂埃が舞った。しかし、それも、彼がドアを開けようとする頃には、すっかり元の場所に落ち着いていたので彼がそれに気付くことはなかった。

 彼が地面を踏み付けるのは4日ぶりの事だ。彼は全くの手ぶらだったので、出てからすぐに車のドアを閉め、灰色のペンキの塗られた建物に向かった。前に見掛けた銀のたてがみをしたダゲット馬の姿はここからは見ることは出来ない。きっと馬屋にでも引っ込んでいるか、それとも病人を運び込むために駆り出されているかのどちらかだろう。とロジアは思った。

 彼が昨日、目を覚ました時、前と同じ様にすぐに姿を見せたレンにたずねた事は、まだ、リズが入院していて、そこから一歩も外に出ていないかどうかだった。
 その時、レンは少し小鼻を鳴らして、ロジアがずっと気を失っていたことを嘲笑している様にも見えた。
「大丈夫だ。彼女もツェリトもちゃんと生きているよ。お前の実験は今度は失敗したみたいだな。ツェリトは全く前と変わらない様子だ。同じ様に膜の中に厳重に守られている。
 彼女の母親もそうだがな。」

 そうして、一呼吸おいて、レンがまた話し始める前にロジアはつぶやいた。ベッドの脇に立つレンの耳にも聞き取れないぐらいだった。
「彼女はもう死んでいるのも同じ様なものだ。有り得ない完全な死だったんだ。」
 レンはそれを聞いて、そんな事は分かり切ってることじゃないか。とでも言いたげに見えたが、黙ってロジアの寝かされている清潔そうに白く染められたシーツの、彼の体にそった脹らみを見つめていた。見ることで、何かを知り尽くすことが出来る事を信じているかのように。

 その後、レンから言い渡されたことは、ツェリトの実験の再開の延期についてだった。
 99位神官からの命令だった。
 しかし、ロジアは驚いた様子も、落胆した様子も見せずに、ただ、冷静にこうつぶやいたのだった。「私もそれがいいと思う。」と。

 だが、その日の午後にロジアの取った行動は、それとは少し矛盾しているようにも見えた。彼はベッドから抜け出すと、廊下にある電話機の受話器を取った。リズの入院しているはずの第三傷病院に掛けようとしていたのだ。
 彼は受け付けが出るとロゲス・ジッダ治療官を電話に出すように頼んだ。しばらくの間、伏せられている受話器の向こう側から、病院の中の暑苦しく騒がしい音のかたまりが送られ続けていた。その中で不法移民の子供の泣きわめいている声もあった。しかし、意味を聞き分けるのは、やはり出来ないことだった。

 耳を澄ませていると、突然ガタンと大きい音がして、声がした。
「はい。ジッダです。エテルキフ調査官ですか?」
 口調は受話器が取られる少し前にした、彼女の「大丈夫よ。ほら。」と言って、泣いている子供に話しかけている時のものとは違って聞こえた。
 それから、数分の間ロジアは彼女と話をしていた。そして、最後にもう一度、リズを外に出さないようにロゲスに頼んだのだった。
 電話を切ると、青く着色された警察病院の廊下のリノリウムを誰かが歩く足音のみが聞こえた。

 ロジアは慈善傷病院の灰色の木で出来た玄関をくぐると、看護婦センターまで行きロゲスを待った。
 昨日電話を通して聞いた時は、あんなにうるさかったのに今日は廊下を歩く人も少なかった。ロジアは一人で書類の整理をしている若い看護婦に話しかけた。

「今日は静かなんですね。」
 突然話しかけられた前髪を生真面目に止めた看護婦は、少し驚いたように瞬きをした。
「ええ、今日は外来のない日ですから。」
彼女の瞳は日に透かしたときは、茶色に見えた。コーヒーをテーブルにこぼしたときの色に似ている。肌はシュークリームの中の色だ。その甘いにおいを思い出して、吐き気さえ覚えかけた。ロジアは咳払いしてから言った。

「私は、エテルキフ調査官という者ですが、2時にここでジッダさんを待つように約束していたんですが。なかなかいらっしゃらないようですし、呼んで頂けないでしょうか?」
「はい、分かりました。でもその必要は無いみたいですよ。」
 ロジアは振り返ると灰色のファイルを抱いた彼女が近付きつつあるのを見た。
「おまたせしました、ロジア調査官。リズに会いたいんですよね?」
 彼女はまだ、グレーの髪の毛を肩の後ろにくくっている。相変わらず、ひどく冷静な口調だった。そして、ロジアがゆっくり頷くのを見つめていた。
「彼女の容態は落ち着いていますが、以前より少しずつ変化があるような気もします。
あまり、しゃべらなくなったというか。でも、両手の火傷は、ほとんど治りましたよ。」
 ロゲスは少し喜んでいる様子もみせた。
「近頃はあまり神官警察の方も、見えられないんですけどね。リズさんは個室に入っているんですけど、今日はそこで会いたいそうです。」

 彼女は振り返るとまた歩き出した。その背中の白衣を見つめながら、ロジアは低くつぶやいた。
「昨日電話した通りに、ツェリトをあの膜から出そうとする実験はうまく行きませんでした。このことをリズにもう伝えましたか?」
 ロゲス・ジッダはロジアの方に少し横顔を見せた。
「ええ。伝えました。」その声から、彼女は本当はひどくがっかりしているのを隠そうとしているのがわかった。母親であるリズもそうなら良いのだが。

 リズの部屋は天井が高く、15メートルはありそうだった。その天井に近い壁には鎧戸のような排気口があり、換気扇が見えないところで低く、うなり声をかすかにさせていた。
 小さめの窓にはクリーム色に塗られた鉄格子が、はめられていた。
 リズはベッドの縁に腰を掛けて待っていた。水色をした入院服ではなく、小花模様のついたスカートをはいていた。その髪の毛さえ綺麗に梳かされているのが、分厚い鉄のドアをくぐったばかりのロジアには不自然に見えた。
「お元気そうですね、リズさん。少しお話しがあってきました。」
 それを聞いてリズは不安気に頷いて、一つしかない腰掛けをロジアに勧めた。
「ロゲスさん、有り難うございます。お仕事に戻って下さい。」
 ロジアはそう言ってロゲスを追い出してしまったのだった。彼女は少しリズと目を合わせてから、無言でドアを閉めた。
 ロジアは彼女に近付いて座り、弱い日の光に透かして彼女の髪を見た。ツェリトのとは違って、軽くパーマをあてた髪は赤く見えた。
「ロゲス治療官から既に聞いているでしょうが、私はあなたの言っていた通りに彼女を助けてみようとしました。」ロジアはそこで呼吸を切り、無感情を装おうとした。
「だけど、私には出来なかったんです。むしろ、こう言った方が正しいんじゃないでしょうか。助けられないように決まっていたと。」
 彼女は黙ってロジアを見詰め、次の言葉を待っていた。
「でも、本当に有効だったのはあなたの言葉なんです。あなたのお父さんがかつてそうだったように、彼女は殺されるのを待っていた。しかし、それは、彼女の生命構造式の中に隠された事でした。彼女は実際にも自殺しようとしたことはありましたか?」
 彼の口元の引きつった感じを、リズはもう少しで微笑んでいるかの様に見間違えそうになった。確かに彼はそう聞くのが、無上の楽しみなのではないだろうか? 
「ええ。1度だけありました。5年前に旅行中にルーカスダル川の側にテントを張った時です。彼女は、服を着たまま泳ごうとしているようにも見えましたが。」
「そうですか。別に、そのことはこれ以上聞くつもりはありません。でも、彼女は死ぬことを望んでいた事は確かなんですね。
 私が実験中に得た一つの感触を元にして考えたのですが、あの空間膜は、本当は彼女を閉じ込める為でもなんでもなく、彼女を保護するためにあるような気がするのです。」
「あの薄汚ない、ゼリーがツェリトを自殺から守っていると?」
「確かにそう考えていくと、私たちが捜査している方針からはずれていくことになりますがね。私たちは殺人者のグリセル・ゴドルヒンがコントロールして彼女に空間膜を作らせていると予想していました。一つの殺人装置としてです。でも、あの膜を作るのにはグリセルが関与していると、私はまだ、確信しているんですが。
 まあ、まずそのことはあなたに言ってもしかたのないことです。
 あなたは前に会ったとき、あの空間膜の症状はグレナコーンド麻痺症の治療薬であるデル・サカルナサスの副作用によって起こると言ってましたよね?」
 ロジアは口を閉じ、リズが話すのを待った。しかし、彼女は頷くのみだった。
 彼はまた少しの間だけ、天井の換気扇の震えるような雑音を聞いた。

「だから、わたしの言いたいのは、デル・サカルナサスがもし空間膜を作っているのだとしたら、それを引き起こした本当の要因とは、彼女の中の自殺への欲求なのでしょう。だから、彼女の中で自殺したいという気分が強まれば強まるほど、デル・サカルナサスが彼女を守ろうとして被膜を作る能力を強め続けて行って、あのように永遠の時間の中に閉じ込めざるを得なくなるんですよ。それは多分、何か外的な力を必要とする特別な変化でしょう。普通だとデル・サカルナサスは単なる神経伝達を助ける役割しか持っていないのですから。」

 それから、ロジアは今度は本当に少し笑って、リズを見た。
「この事は、一般の薬物学や病理学では考えも寄らないことです、それは、生命魔工学の分野においても同じ事です。だから、今私が持っている証拠なんてほとんど、妄想じみた空想にしか過ぎない事です。
 しかし、5日前に実験の中でツェリトに触れた時に次のような感触を得ました。私が疑似的な視覚の中で見た、ツェリトの被膜を作る神性神経の傷を修復して回っていた、赤い羽虫の設計図は、彼女の生命構造式の中にすでに組み込まれていました。私はそれを知ってすごく残念に思いました。なぜなら、被膜から彼女を助け出すには、彼女の生きている事そのもの全てを変えねばならないからです。それで、実験を途中で止めてしまったんですが、昨日、もう一度目を覚ました時にある重要な事に気が付きました。
 私が実験の途中になぜ、生命構造式の一部が赤い羽虫のために書かれているかを知ることが出来たのかということです。あとで普通の状態に戻って考えてみればそれは極めておかしい事でした。私がどのようにして数千億あるといわれている構造式のほんの数行の赤い羽虫の設計図を一瞬にして捜し当てることが出来たのか、考えてみました。
 その不可能に近い事がなぜ出来たのかという事を。
 その理由は簡単なものでした。始めからその場所が分かるように意図的に印が付けられていたからです。要するに彼女の羽虫に関する数行は後から付け加えられたものだったんですよ。私はその数行を今でも覚えていますが、
その感触はあるものにそっくりでした。デル・サカルナサスです。」
 ロジアの様子は、だんだん明るさを取り戻しているようだった。
「私はツェリトの膜を解き、彼女を自殺欲求から逃れさせる事だって出来ると考えています。」
 しかし、それを見てもリズの顔は強張ったまま、ロジアの方から少し遠避けられたままだった。だが、しばらくしてこうつぶやいたのが聞こえた。
「あなたはまだ諦めていないんですね。私もサカルナサスがツェリトの意思を妨げているのを知っていました。でも、もう少しだけだったらあなたを待ってみてもいいかと、思わないわけではありません。」
 そう言って彼女はロジアの青い目を見た。
 その後、ロジアは軽く礼を言って病院を出た。

 そして、車の方に歩きつつ、なぜリズにはツェリトを殺せるのかをロジアは考えていた。
 あの破れない、空間膜を通してどのようにしてその毒薬、デル・サカルナサスを流し込むのかという事を。
 駐車場に着き、自動車のドアを開けようとした時、彼は遠くの方でダゲッド馬のいななく声をはっきりと聞いた。

 前に来た時、初めてリズにあった時にはその姿を少しだけ眺めることが出来た。ダゲット馬の恐ろしい程の隆起を持った筋肉は、銀色の羽毛の様な優しい毛に覆われているはずだった。今だったら、その毛をブラシで梳かしている様子を見ることだって出来るかもしれない。
 ロジアは一度、握り締めたままになっていた自動車のドアの取っ手から手を離して辺りを見た。どのようにしてでも、彼は嗅ぎたい気持ちになっていた。ほとんど体臭を脱臭されてしまった、それでいて印象に残る、奇妙にプラスチックを混ぜ込まれた馬の匂いを。
 彼らの馬屋は一体どこにあるのだろうか?
 多分、ここから見ると病院の角を曲がった所にあるのだろう。傷病院の灰色の建物の屋根から上に、彼らの主食になりうる北方杉の暗い影が数本、突き出しているのが見えた。
 ロジアは少しの間、ポケットの中に手を突っ込んで考えていたが、そちらの方に向かった。
 すると、病棟から少し離れたコンクリートの地面の上に案の定、それらしき木の小屋が建っていた。所々、緑色のペンキが剥げ落ちかかって地の灰色が見えていた。その壁にあるちょうど自動車のガレージにあるようなシャッターが下の半分だけ開けられていて、中から光が漏れていた。
 ロジアがそこに近付くと溜め息にも似た呼吸音を聞いたのだった。
 それから屈み込んでシャッターの中を覗くと、異常な逞しさの予想とは違った、細く鳥の様な雰囲気の下半身が見えた。でも、そこに生えている銀の毛の色から、そこにはダゲッド馬がいることをロジアは感じた。中には人はいないようだった。
 そして、彼は少しためらってはいたが、中に入ってみることにした。驚かせないように気を付けながら、彼はシャッターを潜り抜けた。中は外から見るよりはずっと薄暗かった。
 そのライトの下で背中を向け、美しい筋肉を見せているのは間違いなくダゲット馬だった。
 馬屋の中には全部で4頭のダゲット馬が体を休めていた。初めロジアがシャッターをくぐった時、やはり驚いたのであろう、尻の筋肉を緊張させ萎縮させていた。確かにそれは普通の馬などよりも、極端まで人工的に強調された筋肉のレリーフだった。むしろ筋肉というよりオートバイの、むき出しにされたエンジンに似ていた。違っていたのはその表面を覆う、銀の繊細な毛皮だけだった。しかし、じっと見ていると、その毛並みさえ化学製品ではないのかと、彼は疑いを持ち始めた。
 ダゲット馬たちが同じ方を向き、こちらに背中を向け続けているのは、頭を向こう側に鎖か何かで固定されているからではないだろうか? ロジアのいる側からは影になり、よく見えないので、彼は壁沿いに少しずつ回り込んで行った。すると、やっと彼らの顔を見ることが出来た。顔の色はより暗く、影に解け込んでいたので最初見分けられたのは、ロジアを見詰める彼らの白目だった。おびえているのかもしれない。ロジアはその宙に浮いているような目を見詰め続けるうちに、やっと彼らの顔の構造を理解することが出来た。
彼らは前見た時はすっぽりとゴムのマスクをしていたので分からなかったのだが、彼らには普通の意味で口と呼べるものは無かったのだ。かつて、馬の持っていたはずの逞しい顎の筋肉と歯はすっかり退化してしまったのか、顔の先はバナナの様につるんとしていて、よく見ると、その先端に人工的に開けられてしまったであろう、小さな丸い穴があった。
 その穴から延ばされたチューブが壁にまで達していて、逆さ吊りにされたボトルに繋がっていた。
 それは、昨日、自分が警察病院で繋がれていた点滴にそっくりな物だった。ロジアは手を延ばすと、そっと馬の首筋に触れた。だが、その馬は嫌がる様子もなく、ただ、ロジアを見ていた。

「あなた、そこで何をしているの?」
 振り替えると、暗がりの中に人が立っていた。女の声だった。
「ああ、すまない。少しだけ彼らを見たかっただけなんだ。すぐにここから出るよ。」
 つかつかと急いで近寄ってきたその女は、いるのがロジアだと知ると、少し気を落ち着けたようだった。それはロゲス・ジッダだった。
「なんだ、あなただったの。お仕事に戻らなくて良いわけ?」
 彼女はそれほど怒った様子も見せずに、むしろおかしくて、くすくす笑っているように見えた。彼女はその時、もちろん白衣は着ずに白い長靴を履いていた。
「綺麗な長靴だね。その方が白衣よりもよく似合うよ。」
「ありがとう。私もそう思うの。あなた、彼らに興味があったの。すごく意外だわ。」彼女は少し、いたずらっぽく笑う目付きをしてみせた。
 それから、ロゲスは自分の持つスチール製の鞄を少しだけ持ち上げた。
「これが、この子たちの食事よ。週に一度しかあげれないんですけどね。」
 彼女は鞄を開けつつ言った。 「中には北方杉の葉から作った、タンパク溶液を入れたカプセルが入っているの。ロジアさん、もう少し時間があるのでしたら、餌をやるのを見ていきませんか?」
 ロジアは彼女のてのひらに収まりきる、プラスチックのカプセルを見詰めていた。中には緑の海のような色をした溶液が、波を立てて光っていた。
 すると、彼女はそれをロジアの手に渡したのだった。ロジアが驚いて、彼女を見ると、また少し微笑んでいた。
「別に簡単ですよ。彼らもあなたから貰うことを嫌がってもいないみたいだし。」
 ロジアは一頭のダゲット馬に近づいていった。その馬はカプセルを見て喜ぶだろうと考えていたが、それから目を反らし嫌がるようにして首をもたげた。ロジアはどうすればいいか分からなくなって、ロゲスの方に振り返った。
「気にしなくても大丈夫よ。ほら、彼の首筋を見てみて。青く細い線で小さな二重円が描かれているはずよ。そこにカプセルの先端を重ねることで蛋白が吸収されてくわ。」
 確かによく見ると首の根元の辺りに、コインぐらいの大きさの円があるのに気付いた。
しかし、それは描かれているというより、非常に細いメスで溝を彫りとられたような跡だった。そこにそっと触れると周囲の皮膚よりもほんの少しだけ湿っていて、柔らかかった。
「ここが、こいつの口という訳か。なら、頭の先に付いてる管は何なんだい?」
「ただの水分を送り込むためだけの口の痕跡みたいなものです。」
「なるほど。」その馬はより一層、身を捩るようにして首の印を差し出してきた。
「さあ、早く蛋白カプセルをあげて。」
 カプセルの先端は、3センチ程丸く飛び出していて、金属の筒を斜めに切った形をしていた。注射器の先ほどは尖ってはいない。ロジアはそれを目の高さに持ち上げて、首の印に差し込んでいった。柔らかい感触がしていた。
 すると、馬はくすぐったそうに、ひづめで地面をゆっくり一度、掻いた。
 しばらくして、カプセルの中の緑の液体は蒸気にでもなってしまったのだろうか、一瞬だけ鋭く光って消えてしまっていた。注ぎ込まれた瞬間には目の前で見ていたはずなのに、その時だけ記憶を忘れてしまっているように、何も見てはいなかった。
「それで、ちゃんと入っていったわ。不思議な感覚でしょ?」
 もう一度、カプセルを引き抜くと、馬はうっとりして瞑想しているようだった。ロゲスは空のケースを受け取りながらつぶやいた。
「この蛋白質は本当は、彼らのエネルギー源のほんの一部でしかないの。」
 その口調は自分もカプセルを注ぎ込まれたことを想像しているかのように見えた。
「彼らは本当は、ただ走るだけで十分栄養を蓄積できるのよ。走ることで、出来る筋肉の中の熱を使ってもう一度発電するの。ただ永遠に走るための機械みたいな生き物。だけど、それだけだとだんだん蓄えていく養分が目減りしていくだけだわ。だから、その死の方向性に対し、彼らにとって唯一の生の可能性そのものである、蛋白カプセルを与えてやるのよ。
 一番不思議なのは彼らの数が増えたり減ったりするときには自分たちで一切、生殖能力をコントロール出来ないの。つまり、生えている北方杉の絶対数が増えるほど木にコントロールされて、生殖欲が増していくのよ」
 ロジアはそれを聞きながら、ダゲット馬とその蛋白の唯一の生産源である、北方杉との有機的な親和性のことを考えていた。それは彼に単細胞生物の持っているテレパシー理論に思いを向かわさせた。アメーバなどの下等生物はメスで丁寧に二つに切断しても、別々に生き延びていく。しかし、その片方に電気的刺激を与えるともう一方も、全く同じ火傷を負うのだった。たとえ、その間に真空をさえ置いてもその反応は起った。
 だが、ダゲット馬と北方杉との間には、化学的抽出物があった。それがお互いの意図を交換しあう役目を持つ、仮想的な空間膜を作り上げているのだった。
 ロジアはツェリトの事を思い浮かべた。彼女はどうなのだろうか。
 デル・サカルナサスはもともとはキノコの中に出来る、自然毒だとは聞いていたが。グレナコーンド麻痺症と、ダゲット馬と北方杉の関係は似過ぎているぐらいだった。
「どうしたの。何か考え込んでるみたい。」
「ああ、今日はありがとう。またいつかお礼させてくれないか。」
「ええ。」
 ロジアは、馬屋のシャッターを潜り抜け、暗闇の中を歩きながら考えていた。
「俺にまたいつかなんてあるのだろうか。」
 車に乗ると神官警察院には向かわずに、キファの居る魔工大の方にハンドルを切った。

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