エテルキフ SF小説 : 著 岩倉義人

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23章

 オレンジ色の光の球が闇の中に、点いてしばらくして消えた。
「今、消えたよ。あ、また点いた。」
 夜の道路に反射している、テールランプにそっくりだった。
「おい、真面目に答えてくれ。始めのランプが点いた時は気付かないふりをしてただろ。
でも、まあいい、だいたい見えているみたいだから。」
 ロジアは視覚機能を確認するためのテストをしていたのだった。

 もう既に、彼の胃の中にはカテーテルを用いてカプセルが押し込まれていた。そのトカゲの関節に似せられた動きをする鉄の管は、透明のぬるぬるした、ごく弱い麻痺性のゼリーが塗られていたからか、ロジアの喉の深くに差し込まれたときも不思議と吐き気は起こらなかった。

 彼の今居る部屋には、完全に日が差し込まないように窓に目張りがされていた。黒くて分厚いゴムの樹脂が窓に内側から被されていて、ちょうど、窓枠の形にレリーフの様に鈍く盛り上がっていた。ロジアの目は窓枠から離れて壁に沿ってゆっくり這わされていった。でも、窓枠と壁との見分けは色によっては出来なかった。「そうだ、窓だけでなく、壁や床の全てがゴムの粘膜で覆われているんだった。それはこれから自分が出していくはずの悪性の電磁波を妨げる役目を持っているんだったよな。」
 麻痺性のゼリーのためか、少し陶酔している様な自分の思考を叩き起こそうとロジアは努力をしてみた。
 確かにそこは居心地の良い場所ではなかった。ロジアの腰掛けているすぐ目の前に、鈍く光るオブラートにくるまれた、やさしい表情をしたツェリトの横顔が無かったとしたら、すぐにも逃げ出していたであろう。

 彼女はロジアが初めて見た日とまったく同じ白い寝巻を来て、その金色の髪の毛を全く同じ様にしてカールさせて肩にかけていた。確かに髪の毛の一本足りともベールをかけられたときと、変化するはずもなかった。ロジアは、全く自分が何も彼女にしなくてももう、犯罪は完璧なものになっているのにやっと気付いた。ゴドルヒンは考えうる中で、最も美しい衣装を彼女に与えようとしたのだろう。

 彼はゆっくり首をひねって、後ろを見ると部屋を覆っているのと同じ種類のゴムの服を、体じゅうに着込んだ二人の男を見た。彼らは、ロジアがツェリトの膜を部分的に剥いだときに歩み寄って行って、彼女をその場所からつかみ上げる役目を負わされていた。
 彼らの表情はマスクで完全に覆われていて、眼球の部分にも黒いガラスで隠されてさえいたから誰とも見分けが着かなかった。彼らもそれを望んでさえいるのだろう。こんな偽物でしかない神聖性のための、殺人事件の延長でしかない儀式に出るための装束にはそんなゴムの管を着込むのが一番であるのは間違いないと思えた。
 ロジアだけが安物の白いシャツを着ていた。なぜかというと、これは当たり前の事なのだが、自分の体に同化した神性神経によって、体の細胞の全てから強い電磁波が発せられていくのだから、守りようのないことだった。
 もっとも、それは彼にとってのみ無害であることは始めから分かっていた。神性神経に達している場合、防電磁膜に覆われているほうが返って、彼の体を形作る、物質の結合している小さな網を、引き千切ってしまうかもしれなかったのだった。

 そのような白い霧で出来た、目を見ることの出来ない網によって彼女は形作られていて、ロジアたちのこれからする野蛮な行為によって、彼女は存在すら出来なくなるのではないか、と考えることはロジアにとって非常に魅力的だったのだろう。しばらくの間、となりの部屋からマイクロフォンを通して話しかけてくる、キファの声を無視していた。

「ロジア、あと3分くらいしたら、君の胃の中に収まっているカプセルの中から君の中に、神性神経が少しずつ流れ込んでいくはずだ。もし、気分が悪くなったら無線で知らせてくれ。」
「分かった。」
 ロジアは既に胃の中で、自分のひだの中で静かに眠っている銀色をしたカプセルの事を思った。その表面にはたくさんの目には見えないほどの繊細さを持った溝が、運河のように掘られていた。そこを彼の神性神経になった、氷流酸ガスがカプセルの天辺に開けられた穴から少しずつ染み出して来て、流れていくのだった。
 それは紫色の光を持っているのに違いないと、彼は考えていた。なぜなら、ロジアが研究室の中で見た、顕微鏡のレンズを通して見た時の疑似的な視覚信号、幻影がそのような紫のちらつきを持っていたからだった。ある意味ではそれはロジアの生命の延長線上にあったのだから、ロジアは自分の分身ともいえるものを胃の粘膜に感じ、安心感を得ていたのだ。

 10分ぐらいして、隣の部屋でツェリトの様子を見ていたキファは、モニターの中でロジアが立ち上がるのを見た。それは、いつもとまったく同じで、いつもの習慣としか言いようのないくらいのそっけなさでツェリトに近付き、キスをするようにして屈みこんだのだった。

 それは普通の状態なら非常に危険なことなので、少しの間止めようかとキファは考えていた。しかし、ロジアは何かささやいただけで、彼女の近くに立ち、彼女を見ていた。
 彼は空間膜を破ろうとしているのだとキファは予想した。トリノフェタの時のスカルド・ナーバーとは違って、検査器で直に測定できる事は極めて限られていた。
 それから、ロジアはしばらく椅子に腰掛けてじっと休んでいるようだった。
 確かにそれは外から見る限りでは、たいした変化は見られなかった。
 しかし、ロジアは自分の意思で自由に空問膜を広げたり閉じたり出来る感覚に近づきつつあるのを楽しんでいた。それは全身の細胞を全て視覚細胞に変えて外の世界を見ているようだった。体の一部に青い空が反射して、自分の輪郭通りに青くなっていくのを感じるだけでも、ロジアは快感を覚えた。
 自分の体が青い時は世界そのものも青いのだろう。そういう幻覚に近い、世界との直接的な連鎖をロジアは保ち続けたいと願うようになった。
 しかし、カプセルによって神性神経との同化が進んでいくと、また変化が現れ始めた。

 それは最初は小さな事だった。今までは例えば手から、手の占めていた空間から、外を見てその色を青からオレンジに変えたいと思った時、その事はすぐにかなえられたのだった。だが、その反応していく速さに変化が表れていたのだ。始めは瞬きもする時間さえなかったそれは、次第にゆっくりになってきて、ゆっくり一度呼吸をする時間を変化は必要としたのだ。

 それは普通の状態だと、足の一歩を出そうとしてもすぐには足が反応しなくなった時と同じだ。しかし、そのような麻痺は今のロジアを驚かす事はなかった。彼はわざと自分の体のいる空間自体を大きくしたり、また、小さくしたり、色を変えてみたり、アーモンドぐらいの鏡の集まりに変えたりして、ツェリトのことも忘れて遊んでいたのだった。
 だが、しばらくするとその際限の無い遊びにも飽きてしまったのだろう、彼の色は半透明のグレーに固定されてしまった。非常に強い空間膜が出来ていたのだ。その内側で彼は、もはや何も望むことはなかった。
 だから、灰色のまま止まってしまったのだ。
 彼は自分自身を作っている分子そのものに疑いを持ち、その一つ一つに意識を集中させていった。その全てにそれが何ものかを、なぜ、自分を形作っているのかを知ろうとしたのだ。「どうしてなんだ。どうして僕を無視してくれないんだ?」と彼は聞いた。
 しかし、分子は答えることはなかった。体の中の全ての分子が神性神経化されていたのだった。もともとカプセルの中にあった氷硫酸の小さなかたまりの分子の一つずつは独立してロジアの事を見つめていた。そのことしか許されていなかったからだ。それが誰かの生命構造を雛形として、幻の中にのみ発露させられていく、神性神経の基本的な性質そのものだった。
 そして、それがカプセルによって胃の粘膜を通して全身に行き渡った結果、細胞とその中の分子の一つずつ、全てと結合していった。
 ロジアそのものだけを見ることを仕組まれている、神性神経は個々の分子と言わばつがいを作り、その分子単位一つずつを個室のように、小さくて強力な空間歪曲膜でしきって閉じ籠ってしまったのだった。それは完全な円環構造と呼べるもので、自分自身のみを見る無限の数の鏡を、網膜の中に埋め込まれたのと同じ事だった。

 また、こうもいうことが出来るだろう。自分自身のクローンとのセックスを、終わることなく繰り返しているのと同じ事だと。
 事実、ロジアに残された感覚は麻痺による快感だけだった。
 神性神経は意思を持たない冷たい体をしていたのだから。
 しかし、なぜ、トリノフェタの実験の時はロジアは自分で空間膜を制御し続けることが出来たのだろうか? それは今回の実験では前に比べて、神性神経と体内分子の結合する割合が非常に高いことが原因となっているともいえるだろう。
 とにかく、ロジアはその疑似神性意識の内、コントロールをし得る脳細胞の全てまで、個々の分子体が分裂をしてしまっていたのだった。

 そしてその被膜の中で世界そのものと対立する唯一の点にロジアは成っていった。完全にばらばらになり、ロジアの体積と同じだけの意思を持ちえないノイズは、それこそが神と呼べるものの特徴とされていたのだが、その、世界そのものの有りようから排除される、無限の量のノイズの持つ共通した特徴である一つの連結状態を保っていた。
 それは、終わりを必要としない瞑想だった。
 また、終わることを許されない、苦痛でもあった。
 ロジアは無時間に完全にコントロールされ続けるしか無かったのだ。それは、感覚論理の性能をとうに越えているものだった。しかし、ロジアは自分自身しか存在し得ない、隔絶された極小の世界の中で、感じ取る事が出来るものが何も無いことに、安心感を得始めていた。確かにロジアが本当に望んでいたのはその事だけだった。

 だが、その強い無感覚のベールの中を、無神経に掻き乱すものがあった。
 ロジアのすぐ近くにある、もう一つの永遠性、ツェリト・クファルマイヤーの持つ優美な被膜だった。それだけがロジアの中に浸透し、苛立たせ続けた。だから、ロジアは明確にそれを破壊したい欲望に取りつかれていった。
 そして、彼はもう一度「見る」ことを望み、覚えたのだった。
 その不快感に打ちひしがれながら、見たツェリトの横顔は生きている事を拒む美しさを持っていた。その事がロジアに思い出させたのだった。彼が、世界全部に隔絶される性質を持ち、それが彼を苦しめていたという事をだ。
「それならツェリトもそうなのだろう。」と、ロジアは思った。
 だから、ロジアの決めた事は、彼女の膜を破壊し彼女を殺す事ではなく、彼女をその永遠の時間によるコントロールを続ける膜を取り除いて、助け出すべきだ。という事だった。
「ツェリト、ツェリト。」そう彼女に呼び掛ける声が、ロジア自身の耳の渦巻き型をしたかたつむりの中で、激しく反響を繰り返した。ロジアはそれを聞いて、なぜ彼女にわざわざ呼び掛けているのかを少しの間忘れ去り、自分に嫌悪感を感じ始めた。

「ツェリト、僕は君と話がしてみたいんだ。だから、ほんの少しだけその膜を開いてくれないか。」
 しかし、ロジアがした問い掛けに彼女は答えることはなかった。「やはり、彼女の空間膜とは自分自身で作り出した物ではなく、グリセルによって作られたものなのだろう。」
 ロジアは一人でそうつぶやくと、彼の神経のうち、かつては彼の視神経だったところに、彼は意識を集中させていった。そして、その被膜の先を、ねじ錐の様に細長く伸ばし、彼女の膜に触れていった。そうすればより一層彼女の事を見る事が出来る気がした。
 しかし、その事は一方でロジアに小指の爪をゆっくりと引き剥がすような疑似感覚を起こさせたのだった。ただ、それは一瞬の間だけだった。彼が視覚を触手にして触れた時、彼の目の前には、ツェリトの空間膜を可能な限り引き伸ばして拡大したパターンが現れ始めた。

 乳白色をした鱗状のやわらかい神性神経が発露していて、視野の消えていくところまでそれはずっと続いていた。永遠に続いている様にも見えた。
 その事を知ってロジアは軽く失望を感じた。だが、すぐに気を取り直して考え始めた。
「彼女の上半身が露出していくぐらい、直接、空間膜を消し去る事は出来ないだろう。ここはまず、神性神経の中に隠されて書き込まれているだろう、ツェリトの生命構造式を一つだけ取り出してみるしかないな。」
 彼は疑似視神経の先端からより細長い透明のワイヤーを作り出した。そして、それをくねらすようにして回転させ、ツェリトの神性神経細胞の一つに、傷を作らないように差し込んでいった。その先が触れた瞬間、ロジアは僅かな空間歪曲を作りだし、ツェリトの膜に隙間を開け、ワイヤーが通る分だけの穴を作り出した。
 
 その中からロジアは神により書かれた原始言語であるツェリトの生命構造式を盗み出したのだった。それは眠らされているツェリトに似ているともいえたが、その構造式は生命以外の他の物質に真似させると必ず異常を来すものでもあった。耐えられずに空間被膜を作り、その中に閉じ籠ってしまうのだ。

 そしてロジアは、一つの空想に満ちた予想をツェリトの構造式を手につかむうちに得たのだった。それはその神経のかけらが、普通の人の物よりもはるかに弱々しくて、ガラス繊維の様に皮膚に突き刺さる疑似感覚を持っていたことから分かった事だった。
「彼女を構成している生命構造そのものに、もはや彼女自身も耐えられないのかも知れない。彼女を作っているその構造が激しく変化したのが原因なんだろうか?」

 そうやって、彼女の生命構造式のガラス繊維の絡まりを丁寧に増幅した彼は、その神性神経細胞の一つ一つに、彼の触手を通して流し込んでいった。
 それは鍵穴に差し込まれる鍵の役割を持っていた。
 しばらくして、その細胞はだんだんと減り、空間歪曲の被膜も弱まりつつあるのをロジアは感じた。しかし、その一方でそれを阻む力があるのを彼は知った。ほんの小さな赤い光の塊が彼女の壊された神性神経の上を撫でるとその神経はすぐに修復されてしまったのだ。彼は少し驚くと、その柔らかな羽根を持った赤い羽虫に触手を伸ばし、潰して消し去ってしまった。
 その作用は通常の神性神経の発露していく過程とは全く違っていた。だが、その数匹の羽虫たちは潰されるとすぐにも、全て姿を消してしまったので、ロジアは少し安心して疑似生命構造式を細胞に流し続けていった。今度は、羽虫が現れても大丈夫なように、かなりペースを上げて流入を続けたのだった。
 けれども、その数分後には異常な量の赤い光の羽虫が、発生し続け始めた。
 触手でどんなに潰しても、構造式の流入を続けるとすぐに羽虫は生まれ出て、空間歪曲膜を弱めるどころか強化し続けたのだった。
 そして、その永遠の繰り返しに焦りを感じ始めたロジアは、一つの奇妙な事に気付いたのだった。
 それは、盗んだ生命構造式を増やしている時と、赤い羽虫を潰した時に出る染み出た体液の匂いを感じるときの感触がそっくり同じだということだった。
 その事はやがて彼を混乱させ、絶望させる考えに導いて行った。
「彼女の生命構造の式そのものの中に既に、あの赤い虫を発生させていくプログラムを内在しているのではないだろうか? 
 だから、その事が指すのは、彼女が空間膜に閉じ籠るのは、それが発生した時にはグリセル・ゴトルヒンの悪意によって膜が出来たのだろう。でも、彼女の中の奥深い部分には、それを待ちわびているシステムが既にあった。
 彼女は生命の本質として空間膜を作り、僕には分からない作用で、彼女の母親のリズが毒薬を持ってきたのを知り、進んでその毒を飲み込もうと、自殺しようと待っているだけなんだ。
 この僕が助け出そうとしていること自体、彼女にとって全く無意味な事だったんだ。彼女の生命の中心構造は、はっきりそれを示しているじゃないか。」

 それから、しばらくしてロジアのその実験は中止された。
 その理由は、彼以外には理解するのは難しい事だった。彼自身の意思のみによって中止されたように他の人には見えた。モニターを見つめるキファの目にはロジア自身も空間膜を作り始めたこと以外、何も分からなかったのだ。
 しかし、実験の開始から中止まで15時間は経過していた。

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