22章
その後の2週間を使って、実験の準備は進められていった。
その、金属製の小さなカプセルでしかない新しいオート・スカルド・ナーバーには、ほんの少量の中身であるガスが閉じ込められた。ガスの種類は、セミ・トリノフェタの時とほとんど同じ氷流化水銀塩が使われていた。ただ違っている点は、前の実験の計測データを用いて簡略化が行われ、中の水銀塩の気体が前もって神性神経化されているという点だった。
ロジアの生命構造式を用いて神性神経化されたのだ。それは、キファの研究室にある普通の双眼顕微鏡を生体レンズに取り替えたものを、ロジアが覗ぎ込み変化させていった物だった。そのガスの中に数時間かけて作られた疑似神経は、ロジアの自分自身の延長されたもののように感じた。単なる触媒にしか自分がなっていない事をロジアは信じられなくなっていた。
その作業を終えた日の午後、家に帰る前に彼はセミ・トリノフェタの邸に立ち寄った。殺人現場であるその場所は、まだ遠くから眺めているのにも関わらず、ロジアにとって特別に変化させられたものであるのが感じられた。
その元々は城であったであろう建物は、全体を白くすベすべした石で覆われていて、外側は全く装飾物のない巨大な台形をしていた。
1キロメートル離れた所からでもその対称形は、薄曇りの空を切り付ける様な輪郭線を持って白く輝いていた。しかし、目を凝らすとその一端には、空中高くまで引かれる細い線があった。異様に高い煙突のようにも見て取れた。だが、それは城の主であるセミ・トリノフェタがかつて殺され、そして無時間の中に閉じ込められていた空間を、ロジアが破壊した場所である、50メートルの塔だった。
ロジアはその入り口で番をしている1人の若い神官警察員に身分証明書を見せて中に入った。既にその場所の捜査は終わっていたのだが未だに封鎖されていたのだ。神官警察員は装束である白いコートを着て顔を影に隠していたが、ロジアを見るとフードを急いで下ろした。
それから、ロジアは建物の中の廊下を通り抜け塔の階段へと向かった。狭い廊下の両脇にある、黒曜石で出来た扉の時々半開きになっている部屋の中を、擦れ違いざまに少し覗くと、中にはほとんど調度と呼べる物が置かれていないのに彼は気付いた。
「もう、だれも住んではいない。もともと、トリノフェタと召使ぐらいしか住んでいなかったのだが。
この方が、殺人現場にはふさわしいじゃないか。」
ロジアは低くつぶやいた。
彼が、この場所にもう一度訪れる理由など本当は少しも無いはずだった。
しかし、神殿に行き神に会うような気分をロジアは味わっていたのだ。その神とは言うまでもなく、犯人とされているグリセル・ゴトルヒンなどという男の事ではなかった。殺人現場そのものに神聖性を見出だしていたのだった。
白くて高い塔の内側に有る仮設の黒い塔を登る時、ロジアは顕微鏡の中の氷流酸のガスと密接な連結状態を保っていた時の、特殊で、特別な感覚を思い出していた。それはたった二時間ぐらい前のことだった。
「ゴトルヒンもこの感覚の中で犯罪を企てたのだろう。それは間違いないことだ。今、私の神経の一部、氷硫酸の神聖な神経は眠らせてある。そうしないとツェリトのところまで連れていくことが出来ないからだ。しかし、ゴドルヒンの作り出した特殊な時空間は、私に破られたことによって本当の意味での永遠性を得たのではないだろうか。
もしかすると、それが犯人の目的だったのかもしれないな。
そうだとすると、ツェリトのことはどうなんだろう。誰かにあの封印を解かせたいのだろうか。確かに一見するとあれは、誰か、例えば神官警察に対する挑戦のように見えるのだが、本当のところ自分がこれ以上殺人するのを止めるために自ら作り出した、特殊なシステムなのではないだろうか。
あの、ツェリトに張られたオブラートの様な空間膜とは。
もし、そうであるなら私はツェリトを助けられるはずだ。」
ロジアは後ろに流れていく自分の白い息を見た。塔の中は寒くなり始めている。
だが、そうでなかったら、自分の考えているのと違っていたらどうなるのかを自問するのをロジアは意図的に忘れた。
仮設の塔の最上階にたどり着いた彼の見たものは、予想通りのものであるはずだった。
弱くなり始めた細長い窓からの光は青くその辺りを映した。行き止まりの壁には、かつて銀の封印紋が並んで付けられていた扉の有る場所には、黒い影に沈んだ長方形の穴が開いていた。すぐには銀の鍵を引き剥がすのは無理だったので、検査のために扉ごと持ち去られたのだった。ロジアは銀の鍵たちがぴったりと一枚貝の様に張り付いていたのを思い出した。
その右に5メートル程離れたところに、円形のひび割れを添った穴が一つ開いていた。
レンたちが空間歪曲された部屋を破壊し、入るために暴力的に爆薬を使って開けた穴だ。しかし、その時の一瞬の爆発は想像の中のみにしか、もはやなかった。それは、殺人現場をさらに特殊なものに変え得る、選ばれた称号としての跡に生まれ変わっていたのだ。
ロジアはほとんど掠れて見えなくなった、日の光の代わりに懐中電灯を点け、腰を少しかがめてその穴の中に潜り込んで行った。
ロジアがその部屋の中を初めて見た時、レンから見せられた鍵穴から覗き込んだとき、それとも、オート・スカルド・ナーバーを積んだ充気ポッドの中に居たときに、強制的に見せられた時とは、違っていた。
あの時の狂暴なまでの白い光はとっくに消え失せていて、扉の有った場所と爆破孔から差し込む弱い光に舐められている場所以外は湿った闇に覆われていた。部屋の隅にはトリノフェタの本などが積まれて置き去りにされていて、時間の経過以上の埃を銀色のベルベッドのようにその上にかけていた。
ロジアは歩き回るうちに、自分の足跡の剥いだ埃の中に白くて弱々しい線を見付けた。
それは、トリノフェタの倒れていた場所を示す、囲まれた印、チョークの跡だった。それが、この場所が殺人現場だったことを論理的に示す、唯一の印であるといえた。
「そのゴドルヒンと言う男はもう一本この線を引かせるつもりなのだろうか。」
ロジアはその無意味な称号を無理やり靴底で消し去りたい欲求を押さえなければならなかった。彼はその嫌悪感を確認するためにこの場所に出向いたのかもしれなかった。それから、5分くらいして、彼はまた自動車に乗っていた。