エテルキフ SF小説 : 著 岩倉義人

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16章

 ロジア・エテルキフの見つめる、その青い視線の先には、閉じられている目があった。
 その目がもう一度、開かれることがあるとしたら、やはり彼と同じ様な青い瞳をしていたのだろう。レン・スコットとも同じ様な。しかし、彼の目は、若干今はくぐもって見えたのは勘違いではないだろう。
 ガダニヒト街にある、アパートの部屋に彼らはいた。彼らの見つめる先には、清潔そうなシーツのひかれたベッドがあり、女が一人横たわって、その重みで柔らかいマットレスを幾分くぼませていた。その女はとても若く14ほどに見えた。髪は緩やかに波型を作り始めようとして時間が止まったようだった。一見、ただ眠っているように見えた。しかし、その目を開くこともなかった。
 呪いという牧歌的な表現に当てはめることの出来ない、美しさを持った寝顔だった。

「彼女はツェリト・クファルマイヤー。不法移民だ。昨日、彼女の母親が彼女の様子の変化に気付き、慈善傷病局に電話をした。それから局員が急行馬車でやって来てみると、彼らには手に負えないことが分かった。それは彼女が、空間歪曲膜に覆われているからで、全く触れることも出来ないからだ。
 今、彼女は生きているとも、死んでいるとも厳密にはどちらとも言えない状態に落とし込められているんだが、方法の類似性と高度な技巧から、本物のグリセル・ゴトルヒンの犯行である可能性が高いと神性意識が判断したと、99位神官が私に伝えてきた。傷病局の治療官の所見はレポートにまとめてある。」
 そこまで押し殺すような、最小限の音量でつぶやいていたレンは、ジムの方を見て資料を手渡すように促した。
「今回は、ばかに手際が良いな。君たちの時間はランダムに縮小が起こるのかい? 後でその所見を書いた治療官に合わせてくれ。」
 ロジアの目は話している間も、ツェリトの横顔から離れることは決してなかった。彼女の横顔を見ると、まるで見られるのを拒まれているかのように、急に視力が、目をふさがれたかの様に、落ちてほとんど見えなくなってしまう。これが露出している、空間歪曲膜なんだろうか。
「生きているとも死んでいるとも、どちらとも言えるとはどういうことか、レン、教えてくれないか。」
 レンはジムの目を再び見た。ジムはそのたくましい体を驚いたふうに一瞬、びくっと震わせてから口を開いた。
「ええ。私たちも着いたのはあなたの半日前だったのですが、その時にはこの治療官のレポートが出来ていました。まあ、ごく簡単な物ですが。それにはこう書いてあったんです。
患者への直接の接触不可。触ろうとした同局局員は、手に重度の火傷を負った。その後、視覚性生態反応装置で調べたところ、反応があったそうです。でも彼女は空間膜でぴったり覆われていて、身動き一つしないそうなんです。肺呼吸をしている可能性はありません。
しかし、見た目には生きている。それが、生きているとも言え、死んでいるとも言える、奇妙な状態の理由です。」
 ロジアはそれを聞いて重くるしそうに呟いてみせた。
「なるほど、ここまでイカれた状況を実際に作り出すのは、かのグリセル・ゴトルヒンだけと言いたいわけか。この人をなんとかするのが私の生かされている上での役割だとでも99位神官は思って命令するのか。」

 部屋の隅で、壁に背をもたれかけているレンは、その神官衣と骨格のせいで、白い傘にそっくりに見えた。彼はロジアの話がそこまで及んだのを意識の隅で確認すると、億劫そうに口を開いた。
「おい、そんなどうでも良い話は後にしないか。君らには気付かないように隠されているが、彼女を覆っている空間排除膜にはかなり強い、精神侵入速度の視覚性幻覚が掛けられているぞ。俺はさっきからお前たちの精神が犯されないように精神防護膜発生装置を緩慢に掛けていたんだが、もう限界に近い。早くこの部屋を出よう。」彼の息が疲労で白く曇りかけていたのに誰も気づいてはいなかったのだ。その装置を使うには、ひどく精神の疲労を伴うものだった。
 特に強い力の精神侵害矢が仕組まれている場合には。
 「気付かなくてすまなかったな、レン。犯罪現場の奴の安っぽい精神錯乱操作はお決まりの事だということを忘れていた。」
 レンはそう言うロジアの言葉が最後まで行き着かないうちに、隣の部屋のイスの上に倒れ込むようにして座り、暖かく緑色に塗られた壁の反射光の影の中に顔をうずめた。
 それから、レンはわずかに口を開いた。少し笑っているようなくちびるの形を鼻から落ちる影が作り出している。明らかな見間違いだろう。彼はそのような落ち着いた状態であるはずはなかった。
「そういうわけだ、ロジア。あの女に短い間、近付いていることさえ途方もない困難だ。
 もうしばらく休んでから今度は検査を始めよう。犯人は視覚による心理的レイプを楽しむ傾向にあるらしい。」
 やはりレンは少し笑っているらしく、それに似た溜め息が口の中に残るコーヒーの香りと共に押し出されていた。
 それを避けるようにして、ロジアは貧相な家具の棚の上にある、ツェリトの母親が作ったのであろう、古ぼけた紫の服の人形を見つめた。その顔は狂気の半透明の霧のゼリーに幾重にもくるまれているツェリト自身に似ていた。人形は薄く埃に捕らわれて、長い間払われることもなかったようだ。
「もし、彼女が振りほどけない空間歪曲膜の中で、偽物にも似た呼吸を止める瞬間を永遠に体験し続けているしかないのなら、私はまた、オート・スカルド・ナーバーを使ってみるよ。振り払うべきではない埃なんてないはずだからだ。」
 その透明な響きを持ったつぶやき・告白が完全に消える前に、彼は戸棚の人形の紫のスカートに縫い付けられたビーズにそっと触れた。思ったほど冷たさを感じさせるものではなかったので、彼は安心してもう一度レンを見た。
 レンの瞳はガラスをはめ込まれたかの様に、鈍く緑の壁を映している。ロジアにはその色が絶望に近い色に見えた。
「確かに、そうとなれば君に頼むしかない。30分後にテストを始めよう。」
 薄暗くなり始めた空の空間は一体感をもって、金色に近付きつつある。その色は隅の欠けたダイオード発光体にも似た不完全な人工の光を思い起こさせた。それは彼女に行われている極めて不自然な犯人による実験、それにロジアたち自身の検査の名を借りた、科学的侮蔑にはよく似合う色の光だった。
 検査の結果、分かったことは予想通りの当惑をレンとロジアに引き起こした。

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