13章
ウゴルクと呼ばれている森に、ヘラムス・ストイカストルはいた。
辺りには人の気配がしないので、彼はほっとしていた。息は白い。森の天井を見上げると、その高いところにある常緑の網目は、頭の内側から外に、細胞を透かして見るのを想像させた。もし頭蓋骨が透明ならの話だが。
右耳の斜め向かい側から、ヘラムスは甲高い動物の鳴き声を聞き取った。それは、慣れていない人でも聞き逃すことはないであろう、意識を引き付ける声だった。霧が鳴いているようだった。なんら苦しさを連想させるものでもなく、意識から手の届かないところへ、容易に染み込んでいった。
また、声がした。今度はさっきよりも、もっと近い。ヘラムスは双眼鏡を目に押し当てて、声のした頭上の葉の間に目を凝らした。緑と黄色の光の斑点の中に、赤茶けた毛の動き、緑の耳を見付けた。ヒクイザルだと思われた。
その大人になったオスザルは、秋から冬にかけて、一匹だけで森に沿って長い距離を旅する。
ヒクイザルは体の中にソレットと呼ばれる石を肝臓の中に持ち、その石は暗闇の中で、黄緑から赤茶色に、ちょうど毛並みと同じ色に静かに変化を繰り返しながら光り続けるので、かつては珍重されていた。今はそのことを知る人は少ない。しかし、へラムスは、10年程前に森の落ち葉に隠れて死んでいたヒクイザルを見付け、それを解剖して、ソレットを取り出したことがあった。昔の本で読んで知っていたのだ。その石をへラムスはお守りのようにして、いつも持ち歩いていた。
ヘラムスはその石を取り出して、遠いところで葉に見え隠れしている、一匹のヒクイザルの方へ掲げてみた。もちろん、昼間なので光ってなどいないが。森の中がどんなに薄暗くともだめだった。
そのオスのサルはそれまでは彼の事に気付いてなどいなかったが、ほんの一瞬だけ彼を見て、今度は完全に葉の塊の中に姿を隠した。
「怖くなったのかな。」
ヘラムスは少し残念がっていた。
そのまま、1時間くらい東に行き、森のふちにちょうど良い、背丈の低い草だけ生えた空き地を見付けたのでそこに彼はテントを張った。
彼がウゴルクの森に来た理由の一つは、イソギチョウという鳥を見に来たのだった。イゾギチョウはある訳で、彼にとって非常に親しく感じている鳥だった。イソギチョウは小型のシギの一種で、渡りをする。冬はウゴルクの森の近くで卵を生んで、雛を育て、夏はジスの北のコメールオル湿原に集まるのだ。そこは年中、熱帯のように暑く、餌となる虫もたくさんいた。ただし、コメールオルの冬は、激しい嵐の季節でもあるので、気候の穏やかなジスに来ているのだった。
イソギチョウは嵐の季節が近付いているのを、太陽の高さで知ると、旅立つ10日程前に必ずあるキノコを1羽につき、1つだけ食べる。その赤い螺旋状のキノコに特別栄養が有るわけではない。むしろ、毒を含んでいるとさえいえた。イソギチョウ以外のものにとっては。
彼らはそのキノコ、ルゴラタケに含まれる、デル・サカルナサスを必要としていたのだ。
コメールオルは毒の湿地と呼ばれていたが、洪水により伝染病が流行ったのみではなく、人工的な毒物に汚染されてもいた。その時、ほとんどの動植物が一時的に奇形化したり、死んでしまったりしたのだが、やはり適応を果たしたものもいた。その結果その土地に特有の猛毒を必要とするようにさえなっていたのだった。イソギチョウには正常な生体反応をするために、特に、卵殻形成においてデル・サカルナサスは重要な役割を持っていた。
その毒なしでは、卵の殻がもろくなってしまい、親鳥が暖めようとして上に乗った時、砕けてしまうのだった。
しかし、イソギチョウの雄の胸の羽が黄色いのは、卵が割れて黄味が染み付いてしまったのでは、もちろんない。それもウゴルクの森に来る期間だけのことだ。繁殖する期間だけの。
ヘラムスは子供の時から、デル・サカルナサスの錠剤を飲み続けていた。
それは単なる、有る種の遺伝子上の欠陥だと考えられていた。
だが、自分と同じ遺伝子欠損をイソギチョウも持っているのをヘラムスは知った。5年前に書かれた、ジス鳥類学会の論文集を古本屋でたまたま見つけて、鳥類生理学の論文を読んだときだった。
「私と同じ種類の血液、それを混ぜ合わせるとどういうことになるのだろうか?
人工的な幻は、もとは自然によって植え付けられたのだろう。」
ヘラムスは焚き火に砂をかけて消した。
次の日彼は首に双眼鏡をぶら下げて、ルゴルクの森の縁に沿って歩いていた。空はうす灰色で、擦りガラスを思わせた。そのガラスに水滴が付くのはまれだ。ジスの冬はずっと簿曇りだった。
遠くの草むらから、ピ、ピと電気信号の様な音が30秒置きに繰り返ししていた。イソギチョウのつがいが隠れているのかもしれない。
双眼鏡を覗くと、イソギチョウの黄色な胸毛が、灰色の草のスリットを通して寸断されているのを、ヘラムスは感じ取った。黄色い2本、3本の線に見える。すぐ近くに、小さい黒い水滴。その真ん中に黄緑の点は、目玉だ。
こちらを覗いているのか? ヘラムスはかつて、彼らの故郷で彼らを見たときを思い出した。その時も彼らは旅立つ前だったからその色だった。
私がこれからしようと思っていることは、ほんとうに最も自然な行為といえるのだろうか。あの、セミ・トリノフェタだって、キノコの毒をむさぼっていたじゃないか。しかし、その毒の量は私の5000分の1に過ぎない。それがどういうことか忘れていないのは、もはや私だけだ。
苦痛の埋め合わせをしなくてはならないんだ。彼らの胸の黄色い毛は私に復讐を許す色なんだろうか。そんなはずはない。そんなことは私の思い込みにすぎないのは分かり切ってることじゃないか。でも、やらなくてはいけないことであるのは明らかだ。私は完壁な知性の形が欲しいだけなんだろう。本当は。
でも彼ら、イソギチョウの方がずっと完壁な生き物じゃないか。彼らがあのキノコを食べるとき、私と同じ様な苦痛を味わってるとでもいうのだろうか。あのミミズを食べるしかない下等な生き物に。しかし、そうだからこそ、あいつらの方がずっと完壁な美しさを持っている。私よりも。
さっき見たあの若いタカは、何も知らないで、イソギチョウをさらって行った。私が気付かないうちに。あのタカは引き千切れた黒い雲の子供の様な早さで飛んでいた。そしてその足にぶら下がっている肉の袋に生えていた、黄色な毛は、多分イソギチョウの雄のものだ。一瞬しか見てはいなかったのだが。
あの若いタカのつかんでいた肉は食えたものじゃない事を、彼は理解しているのだろうか?
あの、魂まで毒に犯されたイソギチョウの肉の事を。
それともあの若いタカは毒に犯されている肉を食う事によって、自分が即座に死んでしまうことを、また、翼の腱が引きつって伸びたゴムの様になって、永遠のぐったりとした黒い文字を自分の死体が、地面に描くことを前もって、知っていたとしても、そうしたのではないだろうか?
そんな馬鹿げた心情を、一羽のタカが持ち得るはずもないことをへラムスはもちろん分かっていた。しかし、なぜ彼自身がそんなことを考えたかという理由は彼は知らなかった。あえて、知ろうとしなかったのだった。
彼にとってあの若いタカは、ロジアなのであろうということを。
自分の血を彼にすすわせることによってのみ、彼が得ようとして切望している在り方を、現実に存在させることが出来るということを。
ヘラムスはその後の2日間を、ウゴルクの森で過ごし、ジスの都心部へと帰って行った。
手にはその時タカに狩られた、イソギチョウの根本に血のこびりついた羽根がそっと握られていた。人差し指を軽く茶色に汚していた。その血に含まれる毒物、デル・サカルナサスは彼を、現実につなぎ止める役割を持った唯一の物質だった。
そのタカはへラムスがかつてコメールオルで見たタカにそっくりだった。