11章
メヌイク通りを抜け、一人の男が赤いペンキで塗られた、外付けされた金属製の回り階段のあるビルを見上げた。彼にはそれは、ある種の菌類の秋になると決まって形作ることがプログラムされている生殖器を想像させた。
それは、いまでもコメールオル湿原には残されているだろう。そのキノコはデル・サカルナサスと呼ばれる毒物を高濃度に含んでいて、他者に食べられる事を拒むのだった。デル・サカルナサスの錠剤を彼はいつも持ち歩いていたのは、誰も知らない事実だった。もちろん、誰かを殺すためではなかった。
10分ほど歩いて、彼は自分のアパートの入り口の鍵を開けた。
そのドアに掛けられている、ネームプレートの下に隠れるようにしてもう一つ別の鍵が付けられていた。普通の鍵穴の持った鍵とは、別のということだ。
鍵穴は彼には消化器管の外側への露出を思い起こさせたので、好きにはなれなかった。彼の選んだ、半ば閉じられた口は、クローム塩化銀製の封印紋だった。彼はネームプレートを持ち上げて、それに手を延ばすと、造作もなく開けた。
その揺れているネームプレートには、ヘラムス・ストイカストルと黒く印字されていて、真新しく光っていた。それが、彼、へラムス・ストイカストルには好ましく思える、この部屋の唯一の理由だった。
ヘラムスは、部屋に入ると、バスルームに行き、洗面台のコックをひねった。水滴を帯びた、ガラスの中の顔を見詰めながら、コンタクトレンズを外した。彼が自分の肉体に触れていると感じる、唯一の瞬間だ。
それからヘラムスは、青く着色された、冷たい感触のピル・ケースを開けて、中の錠剤を一粒、舌先に乗せた。デル・サカルナサスがその中に数mg含まれているはずだったが、直接にそれを感じとることは出来なかった。
「この私を生きることを強要する、ただ一つの物質なのにな。浸透していく意識が感じられない。無意識に私の傷ついた指の数を確認して楽しんでいるのか?」
彼はデル・サカルナサスを飲んだときに決まって表れる、ある種の貧血にも似た麻痺に備えて、ベッドに横になった。腕を後ろにまわし、なるべく、リラックスしようと試みる。彼は天井のコンクリートから、白いペンキが剥げ落ちそうになっている、1㎝四方を眺める。
彼は20数年体験し続けてきた、心地好い麻痺を楽しみながら、ロジア・エテルキフがどこかで、同じように目を覚ましたのを、微かに感じた。
しかし、彼はこれから4、5時間続くであろう、眠りに似たものに意識をくるまれていった。何層にも。彼は故郷と呼ばれていた所に、一度だけいた時の事を思い出した。それも今は毒の沼に完全に、飲み込まれてい為かもしれない。「コメールオルには二度と帰りたくはないな。しかし、もう一仕事終えてから、考えてみるのもいい。」
付けっ放しのテレビから流れ出ている、逮捕されたグリセル・ゴトルヒンの顔写真の繰り返し映し出されているブラウン管を視線の端に捕らえていた。無関心さを装った視線だった。
「あいつの言った通り、太ったオヤジだったな。だれも俺の本当の名前を知ることなど出来はしないんだ。俺が、グリセルだって分かる奴はいるはずはない。」
でも、あの時ロジアにだけは顔を見られたんじゃないのか?
俺は、ロジアの化けていた女の子を殺してみたいのかもしれない。
グリセルは目をつぶって思い出していた。思い出すことで自分の事を痛めつけているのが分かるときが来るのだろうか。
デル・サカルナサスに間い掛けるのを彼は決めていた。半ば返事がないのを期待してだ。