エクノイド SF小説 著 岩倉義人

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 その奥の部屋はショッキングピンクのタイルで埋め尽くされていた。とても狭くて気違いじみたバスルームだった。隅に置かれた真っ赤なプラスチックで出来たバスタブは銀色の液体で満たされていた。私はそれに人差し指をつけて舐めてみたから知っている。その液体は水銀だった。
 誰かがその水銀の風呂につかり汗を流したのだ。それは実は私なのかもしれなかった。
もしそうだったら現実世界に戻ったときに私の睾丸はすっかり萎縮してしまっていたのではないだろうか。だが砂漠の薔薇が守っていてくれていたのかもしれない。
そんなふうにどうでも良い空想をしながら私は身を乗り出して右腕を水銀の中に沈めていった。すると何かやわらかいものに触れた。私はなぜかそれに驚くこともなく当然である気すらした。その感触はぬるぬるしていたけどとてもなつかしくよく知っているものの感じがした。
 私はしばらくの間その感触を楽しんでいた。

 だがかすかな手触りだけで満足できるはずもなく、水銀の中にある塊が何であるか確かめなくてはならなかった。
 そのために私はここに来たのだから。
 私はバスタブの栓につながっている鎖を見つけるとそれを強く引っ張った。かすかな手応えがして水銀の水面がだんだんと下がり始めた。どこへ水銀は排出されていくのだろう。多分それは人間の手の届かないところだろう。そこには角・シュガーOSが永遠に閉じ込められていて見つめているのだ。自分がエクノイドに破壊される瞬間を。

 長い時間か短い時間か私にはよく分からかったが、ほとんどの水銀は排水口から姿を消した。あとには細長い物体が残されていた。それは銀色に光り輝く人型だった。私はその人型を抱き起こして顔を拭った。
私は無意識の内に呼びかけていた。
「イリン…イリン…助けに来たよ。」
そう呟いてから私は上着の内側のホルスターに入れていた拳銃を取り出すと、彼女のこめかみに当てた。そして引き金を引いたのだった。彼女が息を吹き返す前に。
 私は脳髄が飛び散ったのを見て満足して、彼女に静かに口付けをした。これでもう、イリンはコーヒーを入れなくて済むんだ。私はもうイリンを毎日殺す必要がなくなったのだ。そう安堵のため息をつくと、彼女をもう一度バスタブの中に横たえた。

 それからもう一度バスタブに栓をしてから、蛇口を捻った。出てきたのは奇妙な紫色の液体だった。私はてっきり水銀が出てくるものだと思っていたからびっくりして蛇口を閉めようとしたがどうしても硬くて閉まらなかった。どうにかしようとしてもがいていたら液体のしぶきが顔にかかった。口びるに伝うその液体はなぜか甘い香りをしていた。
その味はグレープジュースにそっくりだった。
「死の味は甘いのかもしれない」そんなふうに呟いているとあることを思い出した。
私の祖母の思い出だった。彼女は私が子供の時、風邪を引いたときよくグレープジュースを飲ませてくれた。グレープジュースを飲めばどんなものだって蘇るんだよ。そう祖母は言っていた。私はそのことを信じ、実行したのだ。彼女が死んだときに。
 真夜中に誰もいなくなった死体の置かれた部屋に行き、棺おけを開け、彼女の口を無理やりこじ開けた。私の胸にはもちろんグレープジュースのビンが抱かれていたのだ。
 そして私は彼女の口からあふれで続けるグレープジュースを呆然としながら見つめ、その甘い香りにむせ返りながら期待感をこめて言った。
「おばあちゃん、目を覚まして。」と。
しかし、彼女は当然蘇らず、私は裏切られたことを知って一人で泣き出していた。
そのあと私のいたずらを知った父親に記憶がなくなるまで殴られ続けたのだ。
そして一週間他に食べ物を与えられず、グレープジュースだけを飲まされ続けたのだった。

そんなことを思い出して私は濃い紫色の液体に沈んでいるイリンに懇願して言った。
「イリン。目を覚まして。僕が裏切ったことを許してよ。」
だが、グレープジュースよりも濃い血液が静かに彼女のこめかみから染み出しているのが確かに見えた。「お前がさっきイリンを殺したのだから、イリンが生き返るはずはない。」そう私の頭の中で私の声がしていた。
 いつのまにかバスタブが一杯になってジュースがあふれ出し、部屋全体を塗らしていた。
 私は怖くて本当に狂いそうになったので、バスルームのドアの隙間からなんとか抜け出そうとした。だがどうしても出ることができなかった。ドアがほんのわずかしか開かなかったのだ。

 そこから出ることはあきらめるしかなかった。私は永遠にその部屋であふれ出るグレープジュースに浸され続けなければならなくなったのだ。蘇えらせる力を持たぬ液体に閉じ込められたイリンのことを見つめながら。

 蛇口からほとばしり出るジュースの音がしていた。私はそれを聞きながらそれでもいいと思った。私にとってのエクノイドの終着点が私自身が殺した女と永遠に生き続けるところだったしても。永遠の地獄が私には似合ってる気さえした。

 だが一つだけ気にかかることがあった。エクノイドで出会った幻で出来た猫の毛をまだ彼に返していなかったのだ。しかしそれも仕方がないことだった。彼がいるところから遠く隔たっているにしてもとりあえずエクノイドの世界に彼の毛を返すことにした。
 それが私の出来る唯一の償いと感じたのだ。その猫がいたところはもっと静かな湖でもあるところだったと思ったがここだって、気違いじみたグレープの泉があるのだから悪くないかもしれない。
 そう思うとなぜか気分が落ち着いてきた。私はポケットに手を突っ込むとハンカチを取り出した。その中には二つの光の塊がはさまれていた。明るさのみで出来た猫の毛だった。それをつまむとグレープの泉に浮かべた。
 泉の底でイリンがほほえんでいるようにさえ見えた。そのことだけが私にとってただ一つの救いだったのかもしれない。

泉に浮かべられた二つの猫の毛の固まりは真っ白に発光しはじめた。最初は弱く、それからだんだんと強く輝き始めた。最後には目を開けていられないぐらいに燃えていた。
 その光以外は何物も存在しないかのように真っ暗になっていった。その暗闇の中でやっと分かったのだ。私は最初からエクノイドの中に存在すらしていなかったということが。

 どれくらい時間が経ったのだろう。その二つの筋の光がだんだんと幅を広げ始めた。見つめているとだんだんにその光の中にも何かが存在しているのが見えてきた。その影はよく見たことのある影だった。にじんでいてよく見えなかった。

しかしやっと分かったのはそれは小さなこげ茶色をした水溜りだということだった。
その上に浮かんでいる白い影が話し出した。
「あなた、大丈夫? 風邪でもひいたの? コーヒー冷めないうちに飲んでね。」
イリンが心配そうに首をかしげていた。
二つの光の筋は私のまぶただったのだ。

イリンは何かを言おうとしている私のことを放っておいて離れて行こうとした。他の社員にコーヒーを配るために。

しかし私は彼女に「待って!」と呟いた。彼女はいぶかしげに足を止め私のことを見つめていた。それで私は急いで上着の中に手を突っ込むと手探りであるものを取り出した。それは拳銃だった。私は彼女の頭に狙いを定めると引き金を引いた。
 だが、銃弾は永遠に彼女の頭蓋骨に到達することはなかった。
 私は永遠に空中でくるくる回り続けて止まっている私の打ち出した銃弾を眺めながらやっと分かった。
 今この瞬間がエクノイドそのものなんだってことに。

終「エクノイド」