エクノイド SF小説 著 岩倉義人

 私はエクノイドの表面にいた。それは五角形の鏡を丁寧に積み上げられているように見えた。その鏡は上に行くほど小さなものになったいたので、銀色の尖塔のように見えた。私は一つの層から下の層に移っていかねばならなかった。最も深いところに行かねばならない気がした。下の層に移る瞬間には意識が寸断され、そのせいで呼吸も出来なかったのでたまらない苦痛でもあった。泳いでいるときに水面に顔を上げて息継ぎする状態と似ているともいえるだろう。そうだ、多分イリンがここにいるとすれば、私が息も出来ず感じることも出来ない瞬間にこそ彼女は存在してるのかもしれない。彼女はここでは私にとっての無意識でもあり死でもあるのだ。それはとてつもなくやさしいことだといえないだろうか。しかしそのことは同時に彼女が私のことを殺せないということさえ意味していた。
 たぶんここではないのだ。この段階では彼女に出会うことは出来ない。そう確信して私は先を急いだ。鏡の表面から顔を上げてみるとあたりは暗闇に染められていてずっと向こうに星が輝いていた。もっともそれは外の世界の星に似ていたからただそう感じていただけで、ただの光るドットなのかもしれなかったのだが。しかしその存在は私のことを安心させもした。
 それとも光るドットとは私のことなのかもしれない。だからこそ鏡の表面を軽々と移動できるのだ。そのことに気付くと私はその状態に留まることがもっとも心地よいことだと感じてそれ以上深く潜るのをやめた。

 そのまま私は偽物の星をいつまで眺めていたのか分からない。だが最後にはその星の一つが徐々に大きくなり始めたのが見えた。星は異様な赤さに光り輝いていた。見つめているのが辛くなるくらいに。
 しばらくして私はやっと気がついた。星が拡大しているのではなく私が星に近づいていたのだ。私は宇宙空間に小さなロケットミサイルのように打ち出されて気が狂いそうになっていた。酸素を胸いっぱいに吸い込んだら逆に死んでしまっていたのではないだろうか。
光速に近いスピードでは酸素の粒子は肺を突き破って向こう側に飛び出してしまうだろう。
 私は自分自身の肺の中で光のドットでできた星が瞬いているのを感じられる気がした。
 そしてそのまま、私は真っ赤な星に激突して体が静かに砕け散ってしまったのだ。とてつもなくゆっくりしたスピードで。

 そんな静かな衝撃に酔いしれていると、私は自分を起こす声を聞いた。それは廊下を歩く足音だった。私は自分自身が歩く足音を聞いてやっと私が廊下を歩いていることに気がついた。廊下は奇妙に細長くぼんやりとオレンジ色の光に満たされていた。ちょうどそれは目をつぶって太陽を見ているときの色と似ているなと私は感じた。とてもあたたたくて心地よく、誰かに抱きしめられているときの感触を思い出した。
 すると廊下の床は最初は石のように硬かったのに、だんだんとやわらかさを増しくるぶしまで埋まり始めた。床には血のような赤い液体が染み込ませてあって、歩くたびに不愉快な音がしていた。
私はその音を聞いてイリンが死んだ瞬間を思い浮かべていた。アルフォ・ルサはどこまで彼女のことを知っていたのだろう。なぜ彼は彼女が死んだことを知っていたのだろう。たぶん彼は彼女の事を愛していたのだ。だから、彼はあんなにも冷静に彼女が死んだことを受け止めていたじゃないか。ということは私はイリンのことを心の底から憎んでいたのかもしれない。私はそのことに気がつくとなぜかうれしくなって、奇妙な叫び声をあげた。
「そうだ、私はイリンのことを憎んでいる。イリンのことを憎んでいる…」
そんな声が永遠に続くようなろうかに静かに響いていた。
 そして、その音が終わる終着点にいつの間にかドアが出来ていた。そのドアは真っ黒で石のように鈍く光っていた。私はそのドアをノブを回して開けるのではなくハンマーか何かで叩き壊したい衝動に襲われていた。そうしなければイリンの私に対する信頼を裏切ってしまう気がして仕方がなかった。しかし、どこを探してもハンマーなど見つかるはずはなかった。
 私は落胆してイリンにぶつくさ謝りながらドアのすぐ近くの床に寝転がっていた。
 床に口付けすれば許されると思ったのだろう。そうして不思議な香りのする床に顔を近づけると床には小さなくぼみがたくさんあるのに気がついた。それは真っ黒くて手のひら二つ分ぐらいの大きさだった。黒い蝶の影かもしれない。私はその影を踏み潰そうと足をその上に重ねた。するとその影は驚いたことに私の足の大きさとまったく同じだった。
 それは私の足跡だった。
 自分がそこにきたのが初めてだと感じていたのに違っていたのだ。そのドアの中に私はかつていて何かをその中でしていたのだ。一体何をしていたのだろう。そう考えるとなぜか私は性的な興奮を感じてしまったものだ。
 それをさておき、私はドアノブを握り締め開けた。しかし、ドアは完全に開けられなかった。向かい側の壁にぶつかってしまったのだ。余りに廊下の幅が狭すぎたからそうなったのだろう。だが、エクノイドはもともと人の暮らすところではないのでそれは大した問題ではなかったのだ。私は仕方無しにわずかに開いている隙間に身を滑り込ませた。