エクノイド SF小説 著 岩倉義人

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 私はエクノイドを見ていた。形はうろこ状、平行四辺形、味と香りは悪くはなかった。まさしくそれは幻覚で出来た砂糖の宮殿。私はそこで生まれ、最後には踏みにじられて死ぬのだろう。秘密だけで出来たささやきの城だった。私はそれを爆破してしまいたかった。
 電話のこちら側で爆発物を暴発させたなら聞いている向こう側では鼓膜はちゃんと破けるのだろうか。もしそうならまだ、希望がもてるということだ。
 明け方近く、公園をうろつく。いなくなった猫の面影を探して。
 それは一種のゲームに似ている。猫の影が見つかればあいつの勝ちだし。見つからなかったら私は三歩だけ前に進める。終着点は底なし沼だ。私はその中に隠れることが出来る。
それだけが希望だったし楽しみでもあった。
 そろそろ、エクノイドの話をしてみよう。それは簡単に言ってしまえば見ることの出来ぬ手触りだけで出来た宮殿みたいなものだった。それは明け方になると消え、夜になると勝手に生まれ変わって姿を現す。
 どうしようもない私には格好の隠れ家だった。そこに隠れ私は秘密の事をし、朝になるとスーツを着て平気な顔でバスに乗った。
 私はエクノイドの中での自分のことを気に入っていた。外の世界での自分のことを憎んでいたのとは対照的に。そこの中ではなにも感じ取ることが出来ない。無感覚ほどの天国はありえないのだ。そのことは世間では知られてはいない。知ったとしても天国ではないかもしれないが。
 そういえばエクノイドの中でかつてこんなことがあった。なぜそんなことを私が言うことが出来るのか疑問な人がいるだろうが、事実は単純だ。その中では無感覚ではあるが結果として記憶には残っている。あとからビデオテープをまき戻しにして一挙に確認するのと同じような感じだ。だから私はその中で起こったことを覚えている。というか覚えさせられている、無感覚の天国とは裏腹の罰を与えられているかのように。
 そこで起こったことはこんなことだった。
 エクノイドの中には明るさのみで出来ている猫がいた。それは影を持たない。私はすぐに逃げ出してしまうその猫を追って茂みの中に駆け込んだ。茂みの中にはやわらかい猫の毛が数本落ちていた。私はそれを拾うとハンカチを出して包み、またポケットの中に戻した。
 多分もうその明るさのみで出来た猫は生きてはいないのだろう。私が追いかけたことで猫は絶望し自分の存在を消したのに違いがなかった。
 しかし、そのことは私の黒々とした欲望のような感情を静かに満足させてくれた。同時にとてつもなく悲しかったのだろうが、私はその感情を感じ取ることが出来なかった。エクノイドの中にいたのだからしかたがないだろう。
 朝になり家路に着いた。ポケットの中に入ったままのエクノイドに住んでいた猫の毛のことをすっかり忘れて。
 私はよくエクノイドに呼びかけていた。そうやっていないとそこがこの世から簡単に消えうせてしまう気がしたからだ。私は分かっていた。エクノイドはかつて生き物だったのだし、今は鉱物になっているのだ。それはとても重要であることのように思えた。
 そのことが地獄と天国とのまた、存在と非存在の境目になっていることは明らかだった。
そんなふうに奇妙な夢にうつつを抜かしているとある光景が目に入った。
それは不思議な茶色い水溜りのようでいて、ある特徴的な香りをしていた。その水溜りに見覚えのある顔が映し出されていた。イリン・ロップの顔だ。なぜか彼女は少し悲しそうに見えた。そのとき声がした。
「あなた、大丈夫? 風邪でもひいたの? コーヒー冷めないうちに飲んでね。」
そういって茶色い水溜りに浮かんでいたイリンの顔は一瞬でどこかに消えてしまった。私はそれをとても残念に思った。なぜかというと彼女の髪はコーヒーの香りよりもずっと良い感じを漂わせていた。だが「いつまでも髪の香りを嗅がせていてくれ、イリン」なんて言えるはずもなかった。そんなことを言ったら私なんて簡単に消されてしまうだろう。ここはそういう国だ。
 だが、イリンの入れてくれたコーヒーの香りのおかげでやっと私は日常的な感覚を取り戻し自分がオフィスの机の前に座っていることに気がついた。そしてPCの電源を入れた。これからの時間はこれを操作し、またその先につながっている別の人生とやらをコントロールしないといけないのだ。実にうんざりする作業だった。しかしそれをあきらめたら、イリンの入れてくれるコーヒーもあきらめないといけないし、一瞬だけ嗅げる彼女の髪の香りのことも一生あきらめないといけなくなってしまう。そのことはなんとかして避けたかった。

 ふと壁にかかった時計を見ると7時半を差していた。もうそろそろ逃げ出してもばちは当たらないだろう。そう思ってPCをまた眠りにつかせた。今日は比較的穏やかな感じはしたが、それでも一瞬だけ冷や汗をかいた。PCの向こう側にいる顧客の精神状態が安定しなかったのだ。ほんのワンクリックのタイミングで遅れていれば彼女は発狂し、私は首になり、イリンのコーヒーと彼女の髪の香りを金輪際あきらめることになっていただろう。
 ただ、実際はそうならなかっただけのことだ。
 それで私はエクノイドに旅立つための準備をするために早めにオフィスを後にした。
 だが、そのとき忘れ物をしていた。デスクの上にハンカチを忘れてしまったのだ。いつもはデスクにいるときはハンカチを使うことは滅多になかった。だがその時は狂いそうになった顧客を慰めていたときに手に汗をかいてそれを拭くために使ったのだろう。今になって思い出してみるとそうであるとしか思えない。
 そのハンカチにはエクノイドの猫の毛が包まれたままだった。
 その毛が夜の間に一体なにをしでかしたのか、はっきりとは分からないが次のことだけは言えるだろう、それは普通ではなかった。

 だがまあ、本当の問題は何をエクノイドとするのかだろう。言ってみれば全て私の感じてる世界全てがエクノイドなのかもしれないし、私は生きてもいなかったのかもしれない。それとも私はエクノイドの外側でだけしか生きることができなかったのだろうか。つまり私だけが本当はエクノイドから隔絶されているのかもしれなかった。

 そういった思いを抱かせるのに猫の毛の一件は十分だったのだ。
私はその日の晩、家に帰ってからエクノイドに旅立つための準備に余念がなかった。まず服を全部脱ぎシャワーを浴び、特製のある種の特別な鉱物を含んだローションを丁寧に塗りこんでいった。耳の中や睾丸の裏側も丁寧に塗った。それはなんのために役に立っているかというとエクノイドに行った時に必ず起こる苛立たしい皮膚の炎症から身を守るためだった。ローションに含まれている鉱石は砂漠の薔薇というらしかった。
 私は砂漠の薔薇に睾丸を守られてエクノイドに旅立つのだ。
 そうやって全身にローションを塗りこんでから、シャツを着てパンツをはき、ズボンを身に着けた。私は準備万端だった。今日うまく行けば、エクノイドから帰る必要すらなくなってしまうだろうと希望を持った。私は静かに青白い指を組み合わせるとエクノイドの地獄について思いを馳せ始めた。ちょうどその時だった。忌々しい現代的な音、電話の音が私に呼びかけたのだ。
 受話器を取ると向こう側から声がした。女の声だった。女は自分のことをイリンだと言った。不思議といえば不思議だった。彼女が私のところに電話をかけてきたのがこれが初めてだったからだ。彼女はもしかすると私に朝のコーヒーを入れることを拒否するために電話をかけてきたのかもしれなかった。彼女は私の起こらないで欲しいと思っていることをいつの間にか知ったのに違いなかった。彼女の不思議な髪の香りと同じぐらいの奇妙な事だった。彼女はエクノイドのことを知っているのかもしれない。それとも彼女こそが私にとってのエクノイドそのものなのだろうか。
 私はなぜか頭を殴られたようなショックを感じ電話を切った。内容はさっぱり思い出せなかった。彼女は一体何を伝えてきたのだろう。しかし、さっきまでしていた彼女の声色が暖かだった事だけは思い出せた。ということはそんなに悪い内容ではないはずだ。
 私はそう楽観的に私自身の感覚を信じ、彼女のことを忘れていった。エクノイドのことを思い出すために。何かを思い出すためには別のことを忘れる必要がある。そのことを人は忘れがちだと私は思う。そしてそれこそが致命的なのだ。
 しかしそのとき彼女のことを忘れ去ってしまったのは私にとって致命的なミスだった。
 何日かたったあとでどうにかして彼女の電話の内容のことを思い出してみると、彼女は私の忘れたハンカチにはさまれている猫の毛のことについて話していたようだった。
 彼女はそのときまだ残業でもしていたのだろう。角シュガー・インターナショナルでは残業は固く禁じられてるのにも関わらず。彼女の頭はどうかしてしまったのだろうか。それともどうかしてるのは私の方かもしれなかった。いや、確実にそうだろう。ここに一つのちゃんとした証拠がある。だが他人から見るとそれはごみくず以外のなにものでもないだろう。それは私の握っていたハンカチが暖かく湿っていたというのと同じぐらいのことだったのだから。だが、だからこそ私にはその証拠が大事なことだと思えた。
 それならその証拠がなんであるかというと、それはこの先これを読むうちに分かってくるだろう。たぶん。まあ別に分からなくてもちっとも構わないのだが、少なくとも私にとっては。