エクノイド SF小説 著 岩倉義人

 次の日会社に行くとイリンは死んでいた。というか死んだことになっていた。私はまだ生きていることになっていたので、ちゃんとデスクがまだあった。席に着くと隣の男が言った。「イリンが死んだ。」と。
彼の名前はアルフォ・ルサといった。彼は自分のPCのキーボードをなでるように叩きながらそう言ったのだ。彼は生まれてこのかた誰かの目を見て物を言ったりしてこなかったのだろう。そしてこれからも彼はそうするのだ。そういった一途さを私は気に入っていた。
だが、そのあと彼は私の目を見て言ったのだ。
「イリンは死んだ。だからコーヒーはもうあきらめるんだ。」
 目を合わせていたのはほんの一瞬だったのだろう。それでも私の魂を奥底から侮辱するにはそれで十分だった。
 私はその訳の分からない快感に酔いしれながら思った。彼の侮辱を毎朝のイリンのコーヒーの代わりにしなければいけない日がついにやってきてしまったのだ。それは私にとって最後の審判以上のショックだった。しかし、私は何も言わずにPCのスイッチを入れ、昨日の気が狂いかけた顧客がどうなったか、調べ始めた。本当は私の方の気が狂っているのか調べて欲しいと思った。そのためには私のいるこの会社、角シュガー・インターナショナルに電話して契約すればよかったのだろうか。
 しかし、そんなことをするぐらいなら、永遠にエクノイドに去った方がましだろう。

 そうこうするうちに私の周りで物音がしなくなった。といっても普段からわずかな音しかしなかったのだが、コピー用紙やフィルムをかき回すかさかさという音さえしなくなっていた。いつのまにか昼の休みに入ったらしかった。
 私は安堵してため息をついた。だが、そのときやっと気付いたのだ。イリンが死んだのが私のせいだったということに。私は誰もいないオフィスで声を殺して一人で泣いていた。
私が残したハンカチにはさまれていたエクノイドの猫の毛の作用によって彼女の生きていることと死んでいることが取り替えられてしまったのだ。
 それはつまり普通の人が生きている空間、つまり自分の肉体と死んでいる空間である他の世界とが取り替えられてしまうことに他ならない。まあ、簡単にいうと宇宙服を着ないで永遠の宇宙空間の中に旅立ってしまうのと同じようなことだった。
「なんの準備もなしに…」
私はしばらくただ単に落胆していただけだったが、やっとあることに気がついた。彼女はここにいないということは、エクノイドの中にいるのかもしれない。彼女はエクノイドの猫の毛を触ってエクノイドに旅立ったのだから、彼女は向こう側で何かになっているのかもしれない。しかし一体何になったのだろう。もしかするとコーヒーになったかもしれない。もしそうだったらどんなに良いだろうか。私はそれを飲み干しさえすれば、永遠に彼女と共にいることが出来るのだから。そういった馬鹿げた考えは私に希望を与えもし、なおかつ絶望させもした。
 私はエクノイドでなにかをしなければならないらしかった。とはいえ一体どうすれば良いのだろうか。何も感じることもできず、何も考えることの出来ない世界、ただそこにいたときのことを思い出すだけの世界。そしてその思い出された内容はかならず「間違って」いるのだから。それは単に人間の感覚の許容の限界を超えているだけだというだけだったらどんなに牧歌的だっただろうか。
 もしそうだったら、角シュガー・インターナショナルがPCの中の無意識的意識を使ってしていることとほとんど変わらないじゃないか。ただそれは顧客の意識をとろけさせるためだけのものなのだから。そんなことに高い代金を支払うぐらいなら甘い香りのする銃口をこめかみにあてさえすれば全て済んでしまうことなのに。
 しかし、世の中では回りくどいことが神聖で、直接的なことはことごとく悪に満ちているとされているのだ。全く不条理だがそれでこそ、エクノイドが存在できる余地がある気がした。だから、角シュガー・インターナショナル万歳!ではないか。
 そう思いながら私は自分自身が銃口を頭に当てている様子を思い浮かべた。はて、私の自宅にあるはずの拳銃は一体どこにしまいこまれてしまったのだろうと考えながら。それを見つけ出すのは、イリンのことをエクノイドの中から助け出すのよりもずっと難しそうだった。