7 泉の中で
ハーガラは不思議に思って後ろを振り返った。彼女は人魚に起こっていることが信じられなかった。人魚は静かに歌っていたのだが、彼女の口の中から水が流れ落ちていたのだ。それは少しずつ流れているようだったが、いつの間にか彼女の膝の下あたりまで水のかさは増していた。その水は雪解けの水のように冷たくてますますハーガラの体は動かなくなっていった。
「魔法の水、そんなものがソーダヌスの体から沸いているんだろう。それでやっと分かった。なぜ彼女たちのいるところにはいつも水があるかが。どんなところであれ、彼女たちの体からは水が沸く。たとえ、砂漠の真ん中であっても魔法のオアシスがあったりする理由がやっと分かった。そんな泉にはきっとマーメイドが住んでいるんだろう。」
日影の魔法使いはうれしそうに語った。
彼自身はとっくの当に逃げるのをあきらめていた。彼の足も地面に根を生やしたように動かなくなっていた。ついでにマーメイドの呪いにかかってしまったらしかった。
多分もう少しで溺れ死ぬことになるのだろう。だが、マーメイドの美しい呪いの湖の中で死ぬのならまだましではないか。そう魔法使いは思った。
彼は泉のようにマーメイドの体からほどばしり出てくる水を静かに見守っていた。そして目をつぶると彼女の歌を聴いていた。自分の聞く最後の音になるのだろうと思いながら。
その歌は彼の知っている言葉で出来ているのではないのだが、なぜか内容は分かる気がした。
「トーステンゲルンを沈めよ。
トーステンゲルンを沈めよ。
それは太陽の切り取られた輪。
人間の首にかけられた呪いの輪。」
そう言っていた。なるほど、古代の魔法都市のトーステンゲルンが湖の底に突然沈んだ訳がやっと分かった。日影の魔法使いはかねてよりの自分の研究の答えがこんなところで得られたのに笑い出したい気分だった。
事実、そうして笑い出したのだった。しかし、声が出なかった。彼は息をすることが出来なくなっていた。驚いてもがくと手足は重く自由に動かなかった。彼はうっすらと目を開けた。彼は深い水の中にいたのだ。あたりは青白い光で満たされていた。とても美しい光だった。その光の源を見ようと頭の上の方を見上げた。
ずっと上の方に淡く丸い輪が見えた。それはすぐに手が届きそうだったが、腕を持ち上げてみても触れることが出来なかった。太陽。太陽なのだろうか。こうして見たほうがずっときれいなんだな。
彼はうれしくなって自分が息が詰まって気を失うまでの間それを見ていようと決心した。
すると、その光の輪の中に揺れている影が見えた。イルカのような尾ひれをした人間。クイル・ソーダヌスの影だった。彼女は助かったのだろうか。
魔法使いがぼんやりその姿を眺めていると、彼女が手を振っているのが見えた。
その手には鎖は見えなかった。そうだ、彼女は魔法の鎖からちゃんと解放されたのだ。彼は安心して、もう一度目をつぶろうとした。その前に彼女が泳いでいる姿を目に焼き付けておこうと思った。彼女はくるくると美しくダンスしているようだった。空中を飛んでいるようにも見えた。そして、そのダンスを終えると今度は膝を抱えるようにして丸くなった。その体はだんだんと沈み始めた。
そして、魔法使いがいるすぐそばを通り過ぎていった。
その時にかすかに見えた彼女の横顔には全く血の気が感じられなかった。
彼女の体は全く日が差さない真っ暗な深みの中に消えていった。多分彼女は死んだのだろう。今度は本当に。無理に悪魔の力を得たのだから仕方がないことかもしれなかった。
だが、彼女の死体は彼女から出た水で覆われている。呪われた土の中で死ぬのではない。魔法使いは良かったと思った。たとえ、彼女と同じ場所で死ぬとしてもそれで良かった。
彼はマーメイドの死体があるはずのもっと深いところへ潜っていこうと泳ぎ始めた。
暫くして底についた。彼は水中でも見える魔法の小さな光を灯した。しかし、淡い光の中でどんなに探しても彼女の死体は見つからなかった。
その理由はすぐに分かった。彼女は水の中に溶けてしまったのだ。しかし、彼は彼女がその泉の中にちゃんといるのを感じた。彼女は自分の姿を捨ててしまったのだ。そうすればもう、閉じ込められることはなくなる。そんな選択を彼女はしたのに違いなかった。
そうして水の中をうろつきながら、彼は自分の体に起こっている不思議な事にやっと気がついた。なぜ、生きているのかということに。
「そうか。彼女が死んだから、やっと俺にも魔法の力が戻ってきたんだ。だからいつの間にか自分で「甘い水の息」の呪文を唱えたんだろう。」
日影の魔法使いはいつまでもその泉の中にいたかったが、しばらくして自分の体が冷え切っているのに気がついたので、陸に上がって見ることにした。
あたりを見てみるとハーガラの畑も小屋も姿を消していた。泉の中に沈んでしまったのだ。彼はその泉の周りを歩いていた。人魚とはその人魚が住む泉そのものなのかもしれないと思いながら。そうして一周する前にしわくちゃの何か黒い物が岸辺に打ち上げられているのを見た。ハーガラ婆さんの死体だった。その口元を見ていると今にもなにやら言い出しそうだった。楽しそうに笑っているかのように見えた。彼女の周りにはポトポトといくつかのトマトが落ちていた。トマトから人魚の魔法の力が抜けてしまったのか、普通の真っ赤なトマトになっていた。彼はそれを拾うとしばらく手の平に転がして遊んだ。
もう少し行くと今度はハーガラの畑仕事に使っていた道具が地面に散らばっているのに気がついた。彼はスコップを手に取ると、ハーガラの亡骸があった場所に戻った。そして浅い穴を掘るとその中に彼女とトマトたちを入れた。
土を埋め戻したころにはすでに夕暮れになっていた。
彼は疲れてマントに包まって眠りながら思った。
「死んでもガマスル・ファグなんかにもどるか。
金なんてどうでも良い。
あんなとこに帰ったってろくなことになるはずがない。
そうだ、この泉の近くにいつか小屋でも立てて住むことにしよう。魔法の力のある純粋な水がたっぷりある。魔化学の研究にはこんないい場所は他にはないぞ。
それには金がいるな。
やっぱり都に帰って、金をふんだくるしかないか。
仕事はちゃんと終えたんだから。」
眠る彼の周りでは濡れている魔法の野菜の香りがしていた。
真夜中になってもその香りは消えることはなかった。
もはやその野菜たちの姿はなくなったにしても。
「アーハ・ハーガラの魔法野菜の庭園」終