2 マーメイド、クイル・ソーダヌスについての思い出
「あんな男がねえ、私に命令するなんて。ほんと信じられんわ。あんなちんけな魔法使いが。
昔だったら、あんな奴、毒薬を飲まして、脳みそを半分溶かしてやったもんだった。
そうすりゃ、なんでも言うことを聞くようになる。死のうが生きようが私の勝手だ。
あたしだって、大昔にゃ、えらいべっぴんだったし、カモになる若い男がいくらでも近寄ってきたもんだ。
あんたたちにはいくら言っても信用しないだろうけどな。」
しわくちゃのハーガラ婆さんは自分の小屋の中の薄暗闇の中で、ランプの明かりに照らされた、自分の小さな観客たちに向かって、話していた。
その物を言わぬ観客たち、つまりもいだばかりの野菜たちは、彼女の話にうっとりと聞き入っているように見えた。少なくともやさしげなランプに照らされて赤く揺らめくトマトたちやトゲだらけのキュウリたちの様子をみていると、あながちハーガラのしていることがばかげているとも思えなくなってしまうだろう。
もしかすると、野菜たちは彼女の話を本当に聞いているのかもしれない。なにせ、それは魔法の力を込められた、野菜たちなのだから。
ハーガラはいぼだらけのヒキガエルのようにひしゃげたトマトに向かって、大声でどなって唾を飛ばした。
「何だって!今あんた、なんて言った?あたしにそんな力があるなんて信じられないって?
なんてあほうなんだ。あんた自身の中にとんでもない力が隠されてるというのにそれにあんた、まだ気づいてない。あんた、見た目がしょぼしょぼの蛙みたいなのに、おつむはそれ以下なんか。
他のきれいなトマトたちはとっくのとうに、枝についているときから知っていたっていうのにさ。
そうか、ほんじゃ教えてやろう。
ちょうど、今日の昼に来た、あの痩せた気持ち悪い魔法使いももうすぐ来ることだし、その前にちゃんと、秘密について教えてやってもいいだろう。
あんたたちに力を与えてくれる、クイル・ソーダヌスについて。
ソーダヌスはマーメイド、つまり人魚の一種さ。奴らは水の中に住んでいる。たとえば、湖や海なんかに。あんまり知られちゃいないけど、淡水に住んでるマーメイドと、海水に住んでるマーメイドは全く種類が違うんだ。
海に住んでるマーメイドは淡水に住んでいる奴とは違ってずっと気性が荒い奴だ。奴らは進んで、他の奇妙な巨大な化け物を従えて、たとえば、動く昆布の塊みたいな化け物なんかを従えて、船を襲って沈めたりしてきた。
そのせいで人間様の反感を買って、ほとんど絶滅させられたからといってそれは仕方がないことだ。一度だけ奴の剥製をガマスル・ファグの博物館で見たことがあったが、そりゃ、醜い奴だった。太っていてヒキガエルみたいな女だった。
それを見りゃ、だれだって、マーメイドが美しさで男をたぶらかすなんてうわさは真っ赤なうそだったって分かるだろう。
でも、あんたとはどっこいどっこいだな。」
そう言って、ハーガラは節くれだった指で、蛙みたいなトマトを軽くつついた。トマトは返事をするようにコトンと揺れた。
「そんなにすねるなって。いぼはいぼでもあんたのいぼはつやつやしていてほんとにかわいいよ。
けどまあ、これからする話はそういう醜いやつじゃない。もう一つの種類の方、湖に住むマーメイドのことの話だ。そいつはそんなに凶暴じゃないが、いろいろたまに悪さをする。普段は隠れて住んでいるんだが、自分のいる湖の近くをたまたま通りかかった男をたぶらかして、おぼれ殺したりするんだ。何が楽しくてそんなことするのかね。
もっとも、昔はあたしだっておんなじようなことをしたりしたこともあったが。
それでも、男たちのことは大層大事にしてやったもんさ。
また、面白いことにマーメイドにはメスしかいない。なんでもオスがいなくても子供が産める体になってるんだと。つまり、たった一人で子供を産んで育てることができるらしい。わたしゃそのへんがマーメイドのうらやましいところだとずっと思ってる。
それでと、クイル・ソーダヌスの話さ。彼女は今もあたし達の畑の中にいて子守唄を歌ってくれる。そんであんたたちはこんなにかわいくなれるのさ。もっとも、当たり前だが、ソーダヌスは始めっから畑の中にいた訳じゃない。
私がそいつを捕まえて、土の中に埋めてやる必要があったのさ。
それをどうやってやったのかあんたたちに教えてやろう。
さぞかし面白そうだろう?
一度しかしてやらないからしっかり覚えておくんだよ。とくに蛙みたいなトマトはな。」
そう言ってから、ハーガラ婆さんはしばらく目をつむって昔のことを思い出そうとしていた。クイル・ソーダヌスを初めて見たときの事を。
その時のハーガラ、つまり何十年も前のハーガラは自分のお師匠さんから聞いていたことをついに実行に移すときが来たのを感じた。
薄暗い部屋の中には五人の若い男たちがいた。美しいものもいたし、そうでないものもいた。しかし、唯一共通する特徴は彼らは無表情な笑みを浮かべていたことだ。彼らはしんとしていて、不気味にさえ見えた。彼らは彼女の俘虜だった。
つまり彼女の魔法的な力によって精神を完全に支配されていたのだ。
しばらくしても誰も何も言わなかった。締め切られたカーテンの外からは町の雑踏の音がかすかに聞こえた。
ハーガラはその時、地味で動きやすい薄緑のマントを羽織ってブーツを履いていた。いつもはもっと自分の若さを引き立たせるためにどんなことでもした。それは自分の家来にするための男たちを引き付けるのにも十分役にたったが、本当は自分のためでもあった。
彼女は腕を組んで、男たちの前に目をつぶってたっていた。男たちもマントを着ていたが、中にはしなやかな皮の鎧が隠されていたし、腰には鋭いナイフがぶら下げられていた。
彼女はゆっくりと目を開くと手下の男たちに向かって言った。
「今日ついに、ソーダヌスを捕らえに行きます。
それはほんとにとても危険なことよ。命を落とすものもきっと出るでしょう。
私だってどうなるか分からない。
それでも、その価値は十分にあるはずよ。」
彼女はそうつぶやいてから、もう一度目をつぶった。それから、急に思い出したかのように、紙を取り出すと今言った内容を書いて、男たちの前に差し出した。
男たちの中には耳が聞こえない者もいることを忘れていたのだろう。
その恐ろしい申し出にも誰も異議を唱える者もいなかった。彼らは笑みを浮かべながら、「はい。分かりました。」と口々に言った。
ハーガラには旅立つ前に誰が確実に命を落とすことになるのかあらかじめ分かっていた。計画通りに行けばの話なのだが。また、自分自身が今回は安全なのかも全く分からないというのは本当だった。
それに死ぬことになる男にも愛着がないわけでもなかった。正直彼を失うことが嫌で仕方がなかった。彼は醜くて間抜けだったが、彼を支配するにはほとんど魔法の力に頼る必要がなかった。それほど彼は素直に彼女のことを愛してくれていたのだ。
他の男たちはもっと見た目もましで、有能で役に立ったが、彼らはもともと浮気っぽく彼らの心を捕らえ続けるには集中力を必要とした。
彼女は命を落とすことになる男、ソイタルのことを思った。彼に初めて会ったとき、彼は汚いぼろを着て、飲み屋からふらふらと出てきたのだった。彼は道にいたハーガラにぶつかりそうになって、よけようとしてかわそうとしたが、失敗して道端に倒れた。とても薄汚くていやな香りがしていた。
それを、彼女は冷ややかに見つめたが、地面に転がって彼女のことを見上げる目線の中に従順さと純粋さを感じた。それで、彼の事を試してみることにしたのだ。
思ったとおり、彼はすぐに彼女の俘虜になった。彼は自分の自由に生きる命を簡単に捨てた。それを彼女はいとおしくさえ思うのだった。
いろいろなことが頭の中をかすめた。今までのままでいいじゃないか。今までだって十分楽しくやってきたじゃないか。
それでも、彼女は旅立つことを決心した。
もっと強い力が私には必要。
それがないと、私だって死ぬ運命にある。
私がもし、死んだらソイタルだって生きていけない。
彼はそう言っていたじゃない。まだ、完全に魔法の力で虜にする前に。
彼女は、部屋のドアを勢い良く開けると、それに続いてぶっそうな物をマントに隠した男たちもぞろぞろと出て行った。彼らはあまり足音を立てずに歩いた。
主人がうるさい足音を嫌っているのを教え込まれているからだった。