7章 1 皮膚と太陽
フレイシーはそのころまだ海の上にいた。これから先、砂の国に帰るまでにはまだ時間がかかりそうだった。イルミスが彼のするべきことを終わらせたあと、フレイシーが水の姫から託されたことをするまでの時間の猶予はあまりないはずだった。
彼女は真っ白なペガサスにまたがったままリレーパーにたずねた。「まだだよね、リレーパー。まだ時間はあるよね?」彼女のすぐ前に座っていたリレーパーはまた男の子の姿になっていた。今度は幻の姿ではなく実際の体だった。彼は疲れてうつらうつらしていたのだがフレイシーの声で目を覚ました。
「うーん。まだきっと大丈夫だよ。その時が来たら水の姫が知らせてくれるってちゃんと言っていたし。まだその知らせは届いていないよ」
「そう、じゃあ良かった」フレイシーはまだ夜明け前の暗闇の中でも白く光っているペガサスのたてがみを撫でていた。未だにこの馬を生み出したのが自分だっていうことが信じられなかった。水の姫がそう言ったのだ。「あなたがこの馬を作り出したの。あなたが水の剣の中を覗いていたとき、水の剣に働きかけてこの馬が存在して欲しいと願った。だから水の剣はこのペガサスを生み出した。だけど覚えていてフレイシー、この剣は何の意志も持っていない。だから自分だけでは何もすることは出来ないの。でも、全ての人の言うことをこの剣は聞いたりしない。あなたはこの剣にとって特別な存在なのよ。イルミスと同じように」
水の城で聞いた水の姫の声がまだ頭の中で響いていた。ペガサスがイルミスを見つけるまでの間に彼女からいろいろな話を聞いた。あの時、海の中の氷の玉の中でイルミスが水の姫を水の剣から守ったあと、またクライダールに襲われたのだった。そして、水の姫は恐ろしい力を発揮して大きな海サソリに大怪我を負わせた。それでもクライダールは氷の玉の中に入ってきて玉を粉々に砕いたのだった。だから、その後フレイシーたちは水の中でちりぢりになってしまった。だけど、フレイシーは水の姫と浜辺ですぐ会うことが出来た。でもイルミスの姿はどうしても見つからなかったのだ。
そして、クライダールがまたやってきた。だが彼はもう無力になっていた。全ての力を水の姫に奪われてしまったのだった。そのまま姫は彼を殺してしまうのかと思ったが彼女はクライダールを許した。それが水の姫のやり方なのだろうとフレイシーは思った。
「水の姫、あの人は恐ろしいこともするし人を助けたりもする。多分それがあの人にとってのバランスなんだ」フレイシーはつぶやいていた。遥か下の方に真っ黒に光る海からごうごうと音が聞こえ始めた。かなり海の表面は嵐になっているらしかった。だけど、空の上は信じられないほど快適だった。また青い満月が雲から顔を出した。それを見ているとフレイシーは不思議な気分になってきた。なんだか頭がふらふらして視点が定まらなくなってきた。
「リレーパー、よく分からないけどなんだか気分が悪いみたい」リレーパーはびっくりして振り返った。「大丈夫? フレイシー、顔色が真っ青だよ」静かな月の光の中でも分かるぐらいだった。「なんだか胸の辺りが変なの。何かが中に入ってどんどんって暴れ回っているみたい」リレーパーはまさかと思ってフレイシーの腕を捲ってみた。すると、見慣れない赤い斑紋が浮き出ていた。
「大変だ! ピカテリア・アカフズが沸いて出たんだ。このままじゃフレイシーの心臓が止まっちゃうよ。早く太陽の光に当てなくちゃ」フレイシーは水の国にいたときにはほとんど日光を浴びていなかった。最初のうちは砂の姫にもらった指輪があったからそれに守られていたのだが、一度水の中に飛び込んだときにその指輪は消えてしまったのだ。しばらくはそれでも大丈夫なようだったのだが、今頃になって力を発揮し始めたのだ。皮膚の下に隠れてじっとしていたウイルスが。その騒ぎを聞いてペガサスはブルルと鼻を鳴らせた。もっと急いで飛んで砂の国に急ごうとしているようだった。だけどまだまだ砂の国にたどり着きそうにはなかった。
「どうしよう? どうしよう!」リレーパーが動転しているうちにフレイシーの頭はぐらぐら揺れ出した。とりあえずリレーパーはフレイシーにしがみ付いて彼女が海に投げ出されないようにしっかり抑えていた。その時だった。彼らがこちらに来るときに出会った巨大な蝶の群れがまたやってきたのだ。でも今はもう蝶を撃ち落とす銃もないし手も足も出せなかった。蝶たちは喜んでペガサスのまわりを飛び回っていた。思いもかけない所で獲物にありついて狂喜しているのに違いなかった。
どんなにペガサスが早く飛んで振りきろうとしても蝶たちは余裕で付いてきた。そして一匹の蝶がペガサスの頭に止まってうれしそうにこちらを見下ろしていた。リレーパーは必死で手を振って蝶を追い払おうとしたが全く気にしない様子で鉤の生えた触手をフレイシーの方に伸ばしてきた。だけど彼女は意識も無くうなだれているだけだった。
「どうすれば良いんだろう、ああ、レイダルス」なぜかリレーパーの頭の中に彼の名前が浮かんできた。いくらなんでもこんな海の上まで彼が来てくれるはずはないのに。だが彼は心の中で何かを感じ取った。小さな炎の力が近づいてくる感じだった。それはレイダルスであることに間違いなかった。彼は心の中で強く念じた。「早く来て、レイダルス! そうしないと、全部終わりになっちゃうよ。僕はここにいるよ!」
それに答えるかのように炎の力が近づいてくるスピードがどんどん早まった。だが彼が来るまでの間なんとかしてしのがなければいけなかった。
「仕方ないなあ、ちょっと、どいていてよ」リレーパーはつぶやくと蛇の姿に変わった。そして口を開くと小さな火の玉を吐き出したのだった。その火は蝶の頭の毛に燃え移ってキーキー鳴いた。その瞬間リレーパーは蝶の鋭い足に噛みついた。するとその足はぽっきり折れてしまった。不意を突かれて蝶は海に落ちて行った。だけどそれを合図にまた新しい蝶がやってきてペガサスの背中に飛び乗って来たのだった。リレーパーにはもう新しい火の玉を吐く力が残っていなかった。それでもシューという音を出して精一杯威嚇していた。ずっと長い間水の剣を飲み込んで力を抑えていたから彼の力はそれで限界近くまで磨り減らされていたのだった。
「せっかくここまで来たのに、おしまいかな」そう思って月の光を見ているとその上に赤く光る影を見つけた。それを見てリレーパーは興奮した。レイダルスが変身した鷹がやってきたのだ。レイダルスはすでに蝶の群れに突っ込んで行って彼らをちりぢりに追い回していた。そして、ペガサスの姿に気づくとものすごい勢いで彼は迫ってきた。それからペガサスの背中に乗っている蝶の頭を素早く足でもぎ取って飛び去って行った。頭が無くなってもまだしつこくしがみ付いているその怪物の足をリレーパーは尻尾で払って海に落とした。「良かった。レイダルスが来てくれるなんて。でもどうして分かったんだろう」
それから真っ赤な炎の鷹は狩りを楽しむようにして全ての蝶を殺そうとした。蝶たちはあまりにびっくりしすぎて逃げることも出来ずに同じところをぐるぐる飛び回っていた。「もう良いよ。レイダルス、彼らは逃げて行ってしまった」リレーパーはまた男の子の姿に戻った。そしてレイダルスはやってきてペガサスに並んで飛んでいた。
「大変なんだ、フレイシーが。ピカテリア・アカフズだよ。心臓が止まりそうなんだ! どうしよう」そうリレーパーは叫んだ。それを聞いて真っ赤に輝く鷹は静かに頷いた。彼はペガサスの目の前にぴったり止まっているように飛ぶと大きなオレンジの炎を吐き出した。そしてそれはフレイシーの体をやさしく包んだ。それは傷つけるための炎ではなかった。その暖かい光の中でフレイシーは目を覚ました。するとずっと前に聞いた声が響いた。
「フレイシー、君にはこんなところで死なれては困るんだ。とりあえず、癒しの炎で君の事を包んでおいた。だがもう少しで夜明けだ。そうすれば本物の太陽の光を浴びられるだろう。そのころにはもう砂の国に近づいている」
フレイシーが薄目を開けて見ているとオレンジの光を通してすぐ近くを赤い鷹が飛び去って行ったのが見えた。そしてその鷹と水平線が交わった辺りから赤くて強い光が空を割るように広がってきたのが分かった。やっと夜明けが来たのだ。それに砂の国に入ればもっと太陽の力は強まって全てを焼き尽くすほどになるだろう。そうすればそんなちんけなウイルスなんてどこかにすぐ消し飛んでしまうはずだった。フレイシーはやっと気持ちを落ち着けてたずな代わりのペガサスのたてがみを握った。
太陽の光がどんどんと強まっていく中、リレーパーはゆっくり振り返った。
「良かった。フレイシー。どうなるかと思ったよ。それでね。今知らせがあったんだ。水の姫から。もうイルミスは水の剣を元にあった所に戻したってさ。だから僕等が水の国から去る前に頼んだことをお願いしますってさ」
なつかしい香りのする太陽の光の中、フレイシーの気分はどんどん良くなっていった。たてがみを握る手にも自然に力がこもってきた。
「もう大丈夫よ。リレーパー。心配かけてごめんね。あとは私たちもちゃんとやらなくちゃね」もう少しで彼らは砂の国に帰り着くのだった。もう下には海は見えていなかった。干からびた褐色の大地が広がっていた。あとちょっと行けばほとんど生き物もいなくなるだろう。だけどそこが彼らにとっての故郷なのだった。
「ホンセ・リーラー。もう少しで行くから」彼女はだいぶ前に見た、彼の姿や声を思い出そうとしていた。その姿は幻のように霞んでいた。だけど、本当の幻にはしたくないとフレイシーは思った。たとえどういうことになっても。彼女はポケットの中を探って水の姫から預かってきたあるものを握り締めていた。そしてそれを日の光にかざしてみた。それは半透明で水色に光る小さな鍵だった。「水の鍵。そう姫は言ってた。これがホンセ・リーラーにとって必要になるときがやっと来たんだって。だけど、それが違っていた効果を持っていたらどうしよう。彼は消えてしまうかもしれない。でもそれでもやらなくちゃ。そうしないともっと恐ろしいことが起こるって姫が言っていたわ。だけど不思議ね。砂の国が消えたら水の姫にとって返って好都合なのに」
そう言いながら、水の姫がそんな選択をしないことをフレイシーは分かっていた。彼女はたとえ自分が死ぬことになってもそんなことはしなかっただろう。だからフレイシーはなんとかして彼女の気持ちに答えたいと思っていた。「だけどほんとにそうなのかしら。私はホンセ・リーラーさえ死ななければ後はどうなったってどうでも良いのかも」
もう彼女の眼下には砂漠が広がり出した。あの砂の上で垂れた耳をしたパルスと遊んだっけ。そう、あの上には沢山の人がいて笑ったり泣いたり喧嘩したり殴り合ったりしてる。だけどそれをフレイシーは守れたら良いのに。と思った。もう少しで砂の塔にたどり着くだろう。そこでは砂の姫が待っていて一体何と言うだろう。そして水の姫が言ったことを彼女は受け入れるのだろうか。フレイシーには分からなかった。「でも、行ってみるしかないか。そうすればきっとなんとかなる」そうつぶやいているとリレーパーが振り返った。彼は笑顔で言った。「やっと帰ってきたね。僕はやっぱり砂の国が一番だよ。水ばっかりてのは寒くて背筋も凍るって感じだし」彼女もそれに笑顔で答えた。「ふふ、そうね。やっと帰ってきたわ」彼女の頭の中にふっと最後に見たトリローファスの姿が思い浮かんだ。あともう少しがんばれば良いだけ。そう彼女は自分に言い聞かせていた。そして自分にはそれが出きるという声がした。自分自身の心の声が。
辺りを見渡すといつのまにかレイダルスの姿が消えていた。彼は一足先に砂の姫の所に帰ったのだろう。そう思っているうちにポツンと一本だけ立つ木の幹のような砂の塔がはるか遠くに見えてきた。その塔は砂の煙の中で霞んで見えた。