水の国の姫 SFファンタジー小説 : 著 岩倉義人

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5章 1 砂の姫の部屋

 イルミスは赤い使者にマクリマスの木の所で会ってかなり経ってからようやく家に帰ってきた。そのまま真っ直ぐ帰れば良かったのかもしれなかったがなんだか気が進まなかったので、街に行きそのままぐるぐる歩き続けていた。
 そうやって何か大変な問題がある時は意味もなく暗くなった街の中を歩き回ったりしているうちに不思議と決心が固まったり不安が少し和らいだりするものだった。
 だけどこの時はいつもと違っていた。いくら廃工場のガラクタ置き場の辺りをうろついてみても、またちょっと間抜けなロボットが店主を務めるジャンクショップを覗いてみても気持ちは晴れなかった。
 でもまあついでだからどんなふうにこのロボットが間抜けかということを言っておくと、例えばある少年がこの店で端末機の中に入れるDLプラグを買ったとしよう。その古ぼけたロボットの前に買いたい物を並べておいて、彼が精算モードに入ってからちょうど1秒してから、もう一つか二つプラグをよけいに並べておけばどういうことが起こるのかちょっと見ものだった。
 なんと彼はその精算しなければいけない品物が増えたのにも気づかずに一つ分の値段だけで料金を請求してくるのだった。
 砂の国の店は結構沢山あるのだがそんなバグのあるロボットはそのジャンクショップだけだった。その事はイルミスの学校ではかなり有名だったので少ない小遣いをやりくりするために貧乏な生徒はよく利用していたのだが、一向に彼が修理される気配はなかった。
 だけど、この時はイルミスの欲しいものはジャンクショップには置いていなかった。全くの本物のゴミしか置いていなかった。もしかすると地下から送られてくる壊れた機械を選別する彼の中のプログラムが今度は完全にいかれてしまったのかもしれない。そう考えるとちょっともったいなかった。
 イルミスは内緒でこのロボットのプログラムを修正してみても良いかもとか考えたが今日はそんな気持ちにもならなかったし、第一全く余裕といったものがなかったのだから仕方がなかった。「大体変に修正してしまったら買った物の数を間違うっていうこのロボットの良いところが消えてしまったら何の意味もないし、もしそんなことになったらクラスのみんなになんて言われるか分かったもんじゃないぞ」
 それにだれだってあんな恐ろしい魔法じみた大男が急に現れて脅迫してきたらそんなふうになってしまうだろう。「だから無理もないよな」そうイルミスは自分に言い聞かせて町外れにある自分の家に帰ってきた。もうすっかり日が暮れていたけど、赤い使者との約束の時間までにはまだ暇があるはずだった。
「とりあえず赤い使者が言っていた、その剣を探さないと」イルミスはあやふやな記憶を探りながら剣の置き場所を探した。「そうだよ。たしか納屋じゃなくてベッドの下の箱の中に突っ込んでおいたんじゃなかったけ」イルミスはベッドの下を覗き込みながら考えた。「でも何か変だぞ。家の中が静か過ぎるし、第一僕が帰ってきたらいつもつばを吐きかけてくるあのバカ犬は一体どこへ行ったんだ。フレイシーもいないみたいだし」
 箱を見つけ出してベッドの下から引っ張り出した。その中には錆びた剣しか入っていないはずだった。だけどもその剣にはぼろ切れが巻かれていた。そんなふうに自分が剣を巻いておいた記憶はなかったが、それほど気にしないで彼はぼろ切れの包みを開けてみた。「よかった。剣があったぞ。これがないとあの大男にどんな目に合わされるか分かったものじゃない」だがイルミスは剣に触れた瞬間驚いて落っことしてしまった。剣の鞘がとても熱くなっていたからだった。
「確かにこの剣はただものじゃないのかもしれない」またイルミスは火傷をしないように剣を布でくるんだ。「こうやっておけば大丈夫か。でもフレイシーはどこへほっつき歩いているんだ。でもまあ多分また、彼氏にでも会いに行ってやがるんだろう。いつものことだし、気にするようなことでもないか」
 そうつぶやきながら彼はフレイシーの部屋の前を通りかかった。部屋の電気は消えていて、ドアは少しだけ開いていた。やはり中を覗いても誰もいなかった。
「でもこの方がかえって好都合かもしれない。夜中に出かけるのを見つかったら怪しまれるかもしれないし。とりあえず時間まで寝て待つとするか。もし起きられなかったら大変だから芋虫にでも言って時間になったら起こしてもらおう」イルミスはペットの機械で出来た芋虫に夜の9時ぐらいになったら起こしてくれ。と頼んだ。
 小さな銀の芋虫は賢そうに小さく頷いてからベッドサイドの木の椅子の上で丸くなった。彼はたぶんりっぱに役目を果たすだろう。ちょっとだけイルミスはそんな役立つロボットを自分自身が作ったことを誰かに自慢したいように感じた。だけど、クラスのみんなはそんなことには興味を示さないだろう。
「こんなに良い奴なのにな。最初はちょっとだけしか出来ることがなかったけど、今だったらいろんなことを知らせて僕に教えてくれるんだ」イルミスはそっと手を伸ばして芋虫の金属の皮をそっと撫でた。もう少ししたら感情プログラムを入れてみるのも面白いかもしれない。そうやってまどろんでいる芋虫を見ていると自分も眠くなってきていたのを思い出した。
 それからベッドに寝転がると昼間の疲れからかすぐに心地よい眠りに落ちていった。
 イルミスが目を覚ますともう夜の10時過ぎになっていた。近くの椅子にいたはずの芋虫はどこかに行ってしまっていた。「あいつ! ほんとに役立たずだな! こんど見つけたらきっとプログラムを書き換えてやる。もっと従順になるように。そうだ芋虫からサナギになって蛾にでもなるプログラムがもしあったら面白いのに」
 彼はしばらくの間イライラしたがそれとは関係なしに急にお腹が空いてきた。昼間に出かけてから何も食べていなかったのだ。とりあえず急いで台所に行き食べれる物がないか探した。すると、とっくに賞味期限切れになっていた乾燥ヌードルがあったのでそれを加熱カプセルに入れると床に転がっていたエネルギーストーンをセットした。
「ちぇ、なんだこのストーンはもうほとんど空っぽじゃないか。フレイシーの奴きっと無駄なことに使いやがったんだ。地下から送られてくる割り当て量は減る一方だってのに」
 イルミスはその温まりきらなくて生煮えになったヌードルをむせながら食べるとフレイシーがいつの間にか帰って部屋にいるらしいということに気がついた。彼女の部屋の中から歌声が聞こえてきたのだ。「また、蚊が耳元で飛んでるみたいな耳障りな声で歌ってやがる。なにか良いことでもあったんだろうか。どうせまた彼氏から何かプレゼントをふんだくってきたのかもしれないな。それをまたあいつの大事なコンピュータの端末に取り付けて一人で喜んでいるんだろう」
 そう思うと少しフレイシーのことが羨ましく感じた。だけどそうやって誰かから何かもらって生きるのはイルミスはなんだか嫌な気がした。
 出かける前にフレイシーに何か言い訳しておいたほうが良いかもとも思ったが止めておいた。いつも自分が夜中に出かけるときは気まぐれに何も言わずに出て行っていたのを思い出したからだ。こういう時に変に習慣を変えてしまったらかえって怪しまれるっていうことをイルミスはその時まで忘れてしまっていたのだった。
 そうこうしているうちに時間は11時を過ぎてしまっていた。「やばい、いつの間に! 今日だけは遅刻したらいけないってのに。僕は何やってんだ!」
 イルミスは急いでヌードルの入っている保温カプセルを床に投げ捨てると、ボロ布の巻いてある剣の包みをわしづかみにしてドアに向かった。あせっていてもマントを持っていくのは忘れなかった。夜になると外はかなり寒くなっているだろうから。
 11時半ぐらいになってやっとイルミスはマクリマスの木の根元のところにたどり着いた。怒られると思ったので急いで走ってきたのだが、赤い使者の姿はどこにもなかった。もしかするとまた鷹の姿になって木の天辺にでも止まっているのかと思って小さなライトを点けて照らしてみたけどいないようだった。
「あいつ、こんだけ人を脅しておきながら来ていないなんて。ほんとにバカにしてやがる」
 イルミスはマクリマスのトケトゲした木の皮に手を触れるとイライラしてちょっと揺すろうとしてみた。だけどそのどっしりした木は微動だにしなかった。「ふう。どうするか。もう少し待っていてから帰っても良いんだろうか。ネットワーク上のあいつの連絡先なんて分かるわけないし。仕方ないよな」
 もしかするとイルミスが遅刻したのを怒って砂の塔に帰ってしまったんだろうかとも考えた。そうだったら奴はどんなことをして復讐をしてくるんだろう、自分がコケにされたことに対して。そう思うとなんでもっと早くこなかったのかとイルミスは自分自身を責めた。
「そうだ、あの銀の芋虫がいけないんだ。奴がちゃんと起こしてくれてれば、そのあと素早く腹ごしらえしてもちゃんと間に合ったはずだったし」でもあの芋虫は今までとても賢かったし、少し変だとも思った。とにかく帰れたらちょっと奴を端末に繋いで調べてみよう。それも無事に帰れたらの話だったが。
 それを考えるとちょっとだけイルミスは笑い出したくなった。「そうだ、そもそもはあの砂の塔に行ったのが間違いだったんだ。あそこに行かなければこんな変な目に合わなくてすんだのに。まったくいかれてるよ」
 そうやって自分のバカさかげんに呆れて、マクリマスの木の根元にあぐらをかいて見上げると月が出ていた。その三日月はびっくりするぐらいに真っ青だった。月齢に応じて色が変化するのは知っていたけど三日月ってこんなに青かったけ。でもこういう夜にはぴったりかもしれない。そんなふうに独り言を言いながらイルミスはぼんやりしていた。もう少しなにか食べてきたら良かったのにとも考えていた。
「もしかしたらフレイシーは食べ物を秘密に溜め込んでいやがったかもしれない。それをあの芋虫に命じて探させておけば良かった。奴の嗅覚探知能力はなかなか大したものだったし、食べ物だったらもっと必死に探すはずだよ。たとえ自分が食べるんでなくても」
 その芋虫みたいな機械は電気を食べて生きている訳だがそれはどんな味なのだろうと彼は思った。多分それは意外と美味しいんじゃないだろうか、とも考えていた。そうこうしているうちに真夜中を過ぎたらしい。あたりはしんとしていて何もいる気配はなかった。
 そろそろ帰ってもいいだろ。とイルミスが立ち上がりかけた時だった。ずっと遠くの暗闇の中から物音がし始めた。何かが息を吸ったり吐いたりしているようなシューシューという音だった。いくらその方向を見ても何も見えなかった。彼はそこをライトで照らしてみようかどうか考えているとだんだんとその音が近づいてきた。それから地面をガリガリと引っかくような音もそれに混じり始めた。たぶんかなり大きな生き物らしい。
 イルミスはその辺りの野性の生物には人一倍詳しかったのだが、その音の主が何者であるのか皆目見当がつかなかった。早く逃げ出さないと食われるかもとか考えたが、その見たこともない生き物の姿を少し確かめたいような気もしていた。
 もし襲われてもこんな錆びた剣一本しかなかったのが心許なかった。せめてショックライトだけでも持ってくれば良かったと思ったが今から家に走ってもその生き物がもし自分を殺す気ならすぐに追いかけてくるに違いなかった。
 いつの間にかその音はすぐ近くに迫っていて、イルミスのすぐ後ろから大きな音がして彼はびっくりした。それは意外な事に人間の言葉だった。しかもそれは小さな男の子の声だった。
「僕が来たよイルミス。赤い使者は来れなくなったんだ。彼はけがをしちゃったんだ」
 イルミスが振り返るとすぐ近くにその子は立っていた。彼は緑色の毛の生えたフードをすっぽりかぶっていてなんだか不思議な感じだった。一体どこから来たんだろう。
「僕は砂の塔からきたんだよ。君のことを向かえに来たんだ。そうしないと駄目だって砂の姫が言ったんだ」
 ほう。とイルミスは思った。この子はこちらの考えが少し読めるらしかった。気をつけなくては。砂の姫は何を要求してくるか分からないし、どうやって弱みにつけこんでくるかも分からない。少なくともあの赤い使者を使わして乱暴なことをしてきた時点で姫はどうかしてると思っていた。今やってきたのがちっぽけで風変わりな男の子であったとしてもそれは関係ない。彼は慎重に話し始めた。
「とにかく僕に協力してもらいたかったら色々ともっとちゃんと気をつけるんだな。
 砂の姫は僕が言うことを聞いて当たり前と思っているらしいがそうとは限らないんだぞ」
 ちょっと凄みを効かせて言ってみたがかえって子供っぽく聞こえてしまったかも。とイルミスが後悔していると、男の子は全然気にせずに「じゃあ早くこの蛇ラクダに乗って!」と後ろの闇の中を指差した。 
 男の子に呼ばれて暗闇の中から出てきたのは青い皮をした巨大な四本足の生き物だった。それは三日月の青い光に照らされてなおさら青くなっていた。その生き物自身の皮も不気味に光っているようで、その長く伸ばされた首の先に乗っかっている顔はなんだか亀に似ていて少しだけ笑っているみたいだった。
 イルミスは蛇ラクダなんて生き物は生まれて始めて見たがそんな怪物に乗るのだけはごめんだと思った。
「僕はこれに乗らずに行きたいな。歩いて行ったらだめかな」
 緑色のフードの男の子は少し笑ってから言った。
「怖いんだね。イルミスは。だけどこれに乗らないと間に合わなくなってしまう。僕たちは早く行かないといけないんだよ。そうしないと、どうしようもなくなる。砂の姫はいつでも僕等と会える訳じゃないんだ」
 男の子はすばやくラクダの上に飛び乗ると手綱を強く引いた。するとラクダはブオーンと変てこな鳴き声をあげてから首を下げてイルミスの足の間に急に頭を突っ込んできた。
「おい! そんなことまでしなくても。分かったよ!」
 ついにイルミスは諦めて蛇ラクダの上に乗った。意外にも乗ってみるとかなり快適であることが分かった。そのラクダはかなりのスピードで走っていたのだが、なぜかその背中はほとんど上下に揺れなかった。少しだけ宙に浮いているような感覚さえあった。
 イルミスは周りの闇が不思議ととろけていって後ろにどんどん押しやられているのをぼんやりして見つめていたが、急に目の前に砂の姫の塔が迫ってきているのに気がついた。
「あそこに行くのはこれで二回めだよ。またあの梯子を延々と登っていくのかな。それだったら大変だな」そう思わず彼はつぶやいていた。それでも自分の前にちょこんと座っている男の子はこちらを振り返らなかった。その子からは不思議な木の実みたいな香りがしていた。それがこの子の好物なのかもしれない。どこかに閉じこもってこの子はずっとその実ばかり食べているのかも、だからこんなにやせっぽっちなんだろう。そうイルミスは考えていた。それに答えるようにして男の子はその時やっとこちらを振り返った。
「別に僕等は登らなくていいんだよ。このラクダが登ってくれるから大丈夫だよ。だけど、少し黙っていてくれないかな。ここからは姫の住処なんだから」
 ああそうかよ。好きにやってくれ! とイルミスは言いかけたが止めておいた。この男の子は普通の子供かと思っていたが実は全然違うのかもしれない。もしかすると仮の姿なのかもしれないし。少しだけ様子を見た方が賢明であるような気がした。
「それに僕は木の実なんか食べたりしないよ。僕が好きなのは乾燥した干し肉とかそんなのだよ。ほんとは生がいいんだけどね」
「生肉ね。そんなもの食べてたらお腹こわすぞ」
 それを聞いて男の子は馬鹿にしたようにクスリと笑ったが何も言わなかった。もうすでにラクダは塔の根元にたどり着いていた。いつの間にか周りの城壁を通過したみたいだった。イルミスはどうやってラクダがそこまで行ったのか思い出そうとしたがよく分からなかった。
「おい、何をするんだ?」
 そのラクダが塔に爪を掛けて登り始めたのを見てイルミスは思わずそう叫んだ。信じられないことにラクダは垂直に壁を登って行った。まるで壁が地面になっているみたいにラクダはスイスイと歩いて登って行った。そのせいかイルミスたちも下に引っ張られることもなく普段通りにラクダの背中に収まっていた。
「こいつは一体何なんだ? この子だってなんだか不気味だしさ」
 それを聞いて男の子はフンと鼻をならした。
「いつまでこの子とかあの子とか言ってるつもりだよ。僕はリレーパーって言うのさ。もう僕等は一度会っているでしょ。忘れたの、イルミス?」
「リレーパー…って誰だっけ? どこかで聞いたような」
 その緑のフードの男の子は少しイライラしているみたいだった。「そうだよ。リレーパーだよ。ほんとに思い出せないの? あの木の下で僕等は会って一緒に水の国の姫のところまで行ったじゃないか。赤い使者のレイダルスの夢の中だけどね。あの時僕は鷹になった彼の足に巻きついていたんだ。本当は少し怖かったけど、レイダルスが一緒なら大丈夫だって思った」
 それを聞いてやっとイルミスは少し分かった。「君はあの時ラクリマスの木の下にいた蛇だっていうのか。なんか信じられないな」無言で振り返った男の子の瞳は最初は黒かったが一瞬だけ赤く水晶のように光った。それを見てイルミスは納得した。
「そうかよ。どうりで生肉が好きな訳だ。それはやっぱり君の仮の姿ってわけか。君は…」と言い掛けてイルミスは言い換えた。「リレーパーはやっぱり砂漠ネズミの肉とかが好きなのかな。なんだか生臭そうだけど」
 男の子は自分がバカにされたのに気がついて何も答えなかった。イルミスの進んでいく方向には真っ暗な空があって、そこにはポツポツ小さな星が浮かんでいた。なぜかその星たちがぐるぐるうれしそうに踊っているのが見えた。
「なんだか幻覚を見てるみたいだけど、異様なスピードでラクダが突っ走るものだからこう見えているんだろう。それはそうと、姫は僕に一体どういう用なんだ?」
 またリレーパーは黙り込んだままだった。
「ふうん、そうかい。事前に情報は漏らさないっていう訳だ。よくしつけられているんだな。まあいいや、姫がどんなだか楽しみにしておくよ」
 今度は姫が侮辱されたのでリレーパーは怒ってこちらを振り向いてきた。また目が赤く光っているのを見てイルミスはうれしくなってはしゃいだ。
「今のうちだけだよ。そんなふうにしていられるのは」
 男の子はそれきりもう何も喋らなかった。
 それからまただいぶ時間が過ぎたのかよく分からないうちに塔の天辺にたどり着いていた。そこでラクダは本来の水平の位置に戻ると乱暴にイルミスを床に叩き落とした。男の子はその後でふわりと地面に降りてきた。
 イルミスは悔しかったので出来るだけ急いで立ち上がろうとした。するとなぜかそれをリレーパーは止めた。「ちょっと待ってイルミス! 何か変だ」彼は少し背を屈めて鼻をひくひく言わせた。
「何かが焦げているような匂いがする」寝転がったままイルミスは面倒くさそうにつぶやいた。「一体次は何が来たっていうんだ」
「黙っていてよイルミス! 何か大変なことが起こったのかもしれない」
 そう言うとリレーパーは自分のマントのポケットから小さな緑色の端末を取り出してそれを開いた。そしてなにやらすごいスピードで打ち込みだした。「へえ、蛇のくせに結構器用なんだな」そう言おうとしたがまた怒鳴られると嫌なので今度は黙っておくことにした。
「うーん、そういうことか。心配するほどのこともないのかも。とりあえず、姫は予定どおり君に会うそうだよ。これから下に降りていこう」それからイルミスの方を振り返ると不思議そうな顔をした。「イルミス、何で寝転がっているの? 早く行こうよ」
「ただ、ちょっと月がどこまで行ったか確認してただけさ。さっきは地平線に近いところにあったのに今はもうあんなに高い所まで登ってきている。と、いうことはかなりここに来るまでに時間がかかってしまったんだな」そうブツブツ言いながらイルミスは立ち上がった。
「さあ、だから早く行こうイルミス。ほんとはここに来るまでにもっと早く来れるはずだったんだけど、ちょっと邪魔が入ってしまったんだ。だからだいぶ遠回りしなければならなくなってしまったんだよ。だから、ラクダに乗っている時、イルミスも変な夢を見たでしょ?」
「ええっ? いつもとたいして変わらなかったような」
 リレーパーはそれを無視して話し続けた。
「やっぱり、赤い使者が怪我をした後、ホンセ・リーラーにもなにか異常が出たらしいんだ。そのせいで色々影響が出たみたいだ。それは仕方ないことなんだよ。でも、姫がなんとかしたらしい。これ以上酷くならないと良いけど」
 そう言うと立ち上がったままぼんやりしているイルミスの手を引っ張った。
「じゃあ、行こう、下で姫が待っているんだ」
 塔の天辺の上をしばらく歩いて中心部分に近づいていくと、前に来たときにはなかった大きな円形のガラスが床にはめ込まれているのが見えた。その上にリレーパーはそっと乗った。「イルミスもこの上に乗りなよ」彼は手招きしたがガラスは見るからに脆そうだった。
「二人も乗って大丈夫かな。今にもこなごなになりそうに見えるけど」そう言いながらもイルミスもガラスに乗った。下を覗くとただ虚空が見えていた。しばらくしてガラスの板はゆっくり下がり始めた。それはエレベーターのようになっていた。
 どんどん下がっていくにつれ見上げてみると、入り口だった塔の天辺に開いていた穴は小さくなっていった。そこから青い月の光が差し込んでくるのが見えた。その光に照らされて底の方には赤く盛り上がった砂が見えてきた。これから下りていく部屋の中には不思議な事に沢山の砂が敷き詰められていたのだった。
 そしてその砂は大きな渦を巻いていてその中心の所に小さな人影がポツリといるのが遠くからでも分かった。それが砂の姫なのだろうとイルミスは思った。筒の様である塔の中にこんなふうに広い部屋があるなんて、どうもおかしいと思ったけど、現実にそれを目の前にしたらなんとも言えなかった。
 イルミスはリレーパーの小さな手を握りながら彼女に近づいて行った。砂の姫は真っ赤な髪の毛をしていたが肌は気味が悪いほど白かった。その姿は綺麗だとも感じたけどそうでもない気もした。そういった価値基準から離れた所に姫の美しさはあったのかもしれない。
 そして彼らが目の前に行く前に彼女は手を上げた。もうこれ以上近づかないでほしいという合図らしかった。リレーパーは姫の所に喜んで駆け寄って行った。それから一瞬の後には彼はまた赤い蛇の姿に戻っていた。姫が手を差し出すとその蛇は地面から離れてするすると腕を登って行った。そこが彼にとって一番安心できる場所なのだろうとイルミスは思った。
「ああ、そうだよ、君はそうしてそこにいれば良い。姫に飼われているのが君にはお似合いだ」そうイルミスが思わずつぶやいていたのを聞いて姫は笑った。
「フフッ、イルミス、初めて会ったのに言いたいことはそれだけですか。最初に言っておきますが私と水の姫とは深い繋がりがあるのです。だからあなたと水の姫との間にあったことは具体的には分かりませんが察しはつくのです。ですから、私はあなたとは何度か会ったような感じがするのでしょうね」
「繋がりですか。僕にはなんだかよく分かりませんが、何もかも」
 それから背中からリュックを下ろし錆びた剣を取り出した。ボロ布を解いてから渡そうかと思ったがまた熱くなるかもしれなかったのでそのままにしておいた。
「とりあえずこれをお返しします。あなたのところの大男の使者がやってきてこれを持って来いと言っていたので」
「ありがとう、イルミス。私のすぐそばに来て地面に置いてください。私はその剣に触れられないの。そうするときっと恐ろしいことが起きてしまうから」
 それを聞いてイルミスはちょっと躊躇したが早く剣を手放してしまいたかったので姫の近くに急いで行ってから地面にそっと置いた。そうした方が剣の眠っている力が起き出さないとでもいうような素振りだった。
「これで僕の役割は済んだんですね。ああ、良かった。一時はどうなることかと思いましたよ」
「いいえ、イルミス、役割は済んだのではありません。むしろ、始まったのです。あなたはここに来て私と話した。それに剣を持ってきてくれたではないですか。あなたはその剣に触れても大丈夫だった。その事自体大変なことを意味しているのですよ。まずはあなたがこの剣に触れたときに起こったことを話してください」
 イルミスはなんと言ったら良いか分からなかったがとりあえず説明してみることにした。そうしたほうが自分でもすっきりするように感じたからだった。
「僕がその剣に触れた時のことですか。あの時はとても不思議な感じだった。剣の中に幻が見えているみたいでどこか遠くに行ってるみたいな感じだった。そこではものすごく沢山の水が渦巻いていて、そこに小さな船が見えた。その上にはあなたと同じような女の子がいてマストに括り付けられていた。最初はそう思ったけど彼女を括っている紐は真っ白な蛇で本当は彼女を守っていることに気がついた。そういう感じの夢が見えた。ただ、それだけです。
 二回目に彼女に会った時にはあなたの使者のレイダルスとリレーパーが見ていたからその様子は聞いているから知っていると思います。
 あなたは彼らに頼んで彼女を殺させようとしたじゃないですか。僕自身を通して。彼女はたった一人で海の上に漂っているんですよ。たぶんずっと長い間そうしてたんじゃないかな。そうやって何かから逃れようとしていたんだ。そんな人なのにどうして殺そうとするんですか?」
 砂の姫はその問いかけには直接答えようとはしなかった。代わりにこう言ったのだった。
「その人は水の国の姫なのです。私たちはずっと離れた所にいてそれでも深い繋がりを持ち続けてきたのでした。だけど彼女は何かを間違ってしまった。だから私の国に黒い使者を送り込み、そして水の剣ももたらしたのです。それが何を意味するかも彼女は分かっていなかった。だけどもう遅いのです。黒い使者は死んでしまったし、それに赤い使者も深く傷ついてしまいました。誰かが彼女に剣を返せば何とかなるかもしれませんが。でも、たとえそれが出来たとしても何が起こるか予想もつかなくなってしまいました」
「剣を返さないとどうなってしまうのですか?」
 そう聞いても姫はすぐに答えずに自分の手に巻きついている赤い蛇の方をしばらく見つめていた。
「どうもなりはしません。ただ、沢山の水が押し寄せてこの国は水の底に沈んでしまうでしょう。それに私と水の国の姫が死ぬだけ。だけど、どうやって砂の国の人たちは生きていくんでしょうね。私の血の混じってない水に触れると死んでしまうのに」
 それを聞いてイルミスは不思議に思った。自分の国が滅びてしまうかもしれないと言ってるのに大したことはないと彼女は言っているのだから。まるで他人事みたいに。
「それじゃあ、一つだけ聞きますけど、僕が剣の幻の中で見た人は実際にいるんですね。それでその人は剣が返されないと死んでしまうと、あなたは言っていた。それも本当ですよね?」
 姫はまるで歌うように言った。
「そうよ。本当よ。何もかも死んでしまうでしょう。だけど、それはそれで良いのかもしれません。私はもう疲れました。もう千年以上もここにいてあなたたちを守って来たのですよ。もう良いじゃないですか。赤い使者も瀕死の重傷を負ったのだし誰も剣を返せる者はいません」それを聞いてイルミスは大声で言った。
「いいですよ! それじゃあ、僕が行ってみますよ。うまく行くかわからないけど、僕はあの姫にもう一度会ってみたいんです。それに水の国にも行ってみたい。ずっと前からそう思ってました。みんなは僕の事をバカだと思うかもしれないけど。僕にとっては水の国は死の国ではないんです」
 姫はそれを聞いてもあまり関心を持っていないように小さな声で歌っていた。もしかすると水の剣の近くにいたから頭がおかしくなってきたのかも。そう思ってイルミスは姫の足元に置いてある剣をそっと持ち上げた。
 すると姫は急に前を向き真面目な表情で話し始めた。
「ありがとう、イルミス。行ってくれるんですね。私の近くにその剣があるとどうも良くないらしいのです。あなたならきっと持っていくことが出来るでしょう。ただ、水の姫に会って返してくれればそれで良いのです。旅のための準備はこちらで出来るだけのことはしておきます。あなたたちは水に弱いのだけどもそれから守られる方法も考えましょう。だからほんのしばらく待ってほしいの。でも、今日は来てくれてうれしかった」
 そう言うと姫は砂の渦の山の天辺に倒れこんでしまった。リレーパーはまた姫の腕からするりと離れると男の子の姿に戻った。
「さあ、帰ろうイルミス。姫はきっと大丈夫だから。見た目よりもずっと丈夫なんだ。だって千年も生きてきたんだし。とりあえず忘れずに剣は持っていってくれよな」
 そう言うと彼はまたイルミスの手を握って元来た場所のガラスのエレベーターの上に彼を連れて行ったのだった。
「水の姫、そうあの人は言っていた。ねえ、リレーパー、どうして水の姫はあの船の上にいたんだろう。そのことがなんだか大事なことのような気がして仕方がないんだ」
 男の子は自分に聞いても分かるはずがないだろうという素振りで肩をすくめて見せた。「さあね。まあ、行ってみれば分かるんじゃない? きっとおもしろい所だよ水の国は」「そうだね。おもしろいだけだったら良いんだけど」
 そんなことだけでは済むはずはないよな。とイルミスは思った。確かにあの国から黒い使者が来て何人も砂の国の住民をさらって行ったのだし、彼らはもうきっと生きてはいないのだろう。何のためにそいつがそんなことをしていたのだろう。とも思った。
 何にせよ、この国から出てみたいというイルミスの希望が叶いそうになっているのだからもっと気分が沸き立っても良さそうだった。だけど自分がもしこの剣を返せなかったらどうなるのだろうということを考えずにもいられなかった。
「だけどもきっと水の国に行きさえすればなんとかなるんじゃないか。水の姫は自分の意志で来てって言ってたじゃないか。もしかすると歓迎してくれるかも」
 そんな風に考えながらガラス板のエレベーターが上がっていくのを待っていた。やっと見えてきた灰色の空には水色に光っている三日月がまるで鎌の様にぶら下がっていて、それは水の国がそこから湧き出してくる裂け目の様にも見えた。
「確かにそこで何かが起こっていて、それを伝えるために使者が来ていたんじゃないか、それを砂の姫は勘違いしていたんじゃないか」そんなふうにも思えてきた。ふと気がつくとまたリレーパーがイルミスの手を握っているのに気がついた。それはとても小さくて暖かい手のひらだった。

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