3章 10 黒い使者
そうはホンセ・リーラーに言ったもののフレイシーはどうやってその砂の姫の下僕に近づいて行けば良いのか全く分からなかった。ホンセ・リーラーの言うとおり中央図書館のデータの中に彼の記録は全くなかった。とりあえずもう一度ミーレのいた温室に行ってみた。しばらくの間エイテルシー先生がそこを立ち入り禁止にしていたが、3日ほどしてすぐにそれは解除された。結局先生からはほとんど何の話もされなかった。彼女にホンセ・リーラーとの関係を悟られるのが嫌だったからフレイシーの方から情報提供することもできなかったので、全く犯人に結びつく物が発見されることはなかったのだ。
ただ、先生が生徒の前で一度だけ話した内容をフレイシーはぼんやり思い出した。
「私たちの授業で扱っていたAIが温室で壊されました。だれかそこで怪しい人を見た者は申し出てください。また私たちも調査しましたが温室の監視カメラには何も写ってはいませんでした」
それだけで先生の話は終わった。先生にしたらそれぐらいの問題でしかなかったのだ。
温室のミーレのいた辺りはきれいに洗浄されてしまっていて、今では別の大きな木の鉢植えが置かれていた。元々そうあるべき当たり前の風景に戻っただけなのにフレイシーはどうしてもやりきれなかった。
「ミーレは殺されたっていうのに、それが当たり前だなんてどうしてそう思えるんだろう。先生だってミーレが病気になったときに助けようとしたときにはあんなに力になってくれたのにどうして今は彼のことを無視するんだろう」
でもそれはホンセ・リーラーが砂の姫の下僕について考えることが出来ないのと同じなのかもしれなかった。だって、エイテルシー先生はホンセ・リーラーの配下にいるコンピューターなんだから。
しばらく温室の中でふわふわと遊ぶように飛んでいる陽光を眺めてからフレイシーはそこを出た。
それからとりあえず砂の塔の方に行ってみることにした。砂の姫と言えば砂の塔なのだから。あそこに姫は住んでいるはずだった。そこから国中を見守っている。それくらいしか姫についての知識はなかった。だけどたとえ塔に登ることが出来なくても、近くからこう怒鳴ってやるつもりだった。
「あなたのおかげでミーレは死んだのよ! この人殺し! そんなところに隠れてないで出てくれば良いのよ!」
それで、フレイシーはたった一人で砂漠を塔に向かって歩いて行くと塔の回りを取り囲んでいるオレンジ色の壁が見えてきた。その壁は背丈より遙かに高かったから乗り越えることは出来なさそうだった。そのごつごつした表面に触れてみると太陽の熱を吸ってかなり熱くなっていた。フレイシーはため息をついた。
「一体何のためにここまで来たんだろう。ホンセ・リーラーだってどうしようもないのに私になんか何もできっこないじゃん」
彼女はゆらゆらとゆらめく太陽を恨めしげに見上げた。するとその太陽の中にうごめく黒い固まりがあるのが見えた。それはよく見ると人の形に似ていた。
その姿はミーレがホンセ・リーラーに送った彼を殺した犯人の写真になぜかよく似ている気がした。その人影を取り巻く炎は真っ黒だったのが違うといえば違うのだったが。
その太陽の中に見えていた人の影はゆっくりと降りてきた。するとフレイシーのすぐ後ろで声がした。
「一体お前はここで何をしているんだ。誰の許可を得ている」
それは砂の姫の護衛兵だった。体一面が銀色の羽根のような金属で覆われていて、それはフレイシーが久しぶりに見る本物の人間の大人の姿だった。
その羽根が彼の繊細な皮膚を太陽から守っていて、どんな敵からの攻撃もふんわりとした羽根が受け止めてしまうのだった。彼の兜から水色の目が冷たく覗いていた。
フレイシーはびっくりして口ごもった。「わ、私はただちょっとこの塔を見てみたかっただけなの」間違ってもホンセ・リーラーの頼みでここに来たとかは言えそうになかった。その兵士もホンセ・リーラーの制御下にないのかもしれない。
「フン、怪しい奴だな。すぐにここから立ち去ってもらおう。そうしなければ音波銃を撃ち込むことになる」
彼女はすぐに行こうとしたのだが、兵士は気が変わったのか手を伸ばしてフレイシーの髪をつかむと乱暴に引っ張った。フレイシーは痛かったけど悲鳴も上げられなかった。
「どうしてだかお前には引っかかるものがある。最近砂の姫を狙う者がいると聞く、それについてお前はなにか知っているんじゃないか?」
彼女の頭の中にホンセ・リーラーのことが浮かんだ。でも別に彼は姫を殺したいなんてこれっぽっちも思っていないはず。彼女はそのまま何も言わずに痛みに耐えていた。
「確かにお前には何かあるはずだ。PTSセンサーが強く反応している。何か常軌を逸したことを企んでいるな。ちょっとこちらに来てもらおう」
彼の指に着けたかぎ爪が首筋に食い込んできた。フレイシーは気を失ってしまいそうだった。ほとんど白目を剥きながら空の方を見上げるとさっきよりも太陽の中に浮かんでいた人影がもっと近づいてきているのが見えた。「ああ、あれは死の使者なのかしら、ちょうど良かった。今私をミーレのところに連れて行ってくれたら、どんなに良いだろう」そうぶつぶつ呟いていた。
「おい、一体何を言ってる。お前は奴らと交信しているのか?」
兵士のPTSセンサーが空から外敵が近づいてきているのを伝えて激しく光り始めた。彼は一瞬、近づいてきているのはまたいつもの赤紋アゲハかと思ったがそうでないことをセンサーは伝えてきた。センサーは急いで中央図書館のデータを漁ってその怪しい姿の正体を調べ上げた。そしてセンサーは「黒い使者・データ番号6626」そう大きな声で歌うように言った。兵士はびっくりしてその小石ぐらいの大きさのエメラルド色のセンサーの音声スイッチを切った。
「黒い使者、そんな奴がここにくるなんて520年ぶりじゃないか。誰がそんな奴を呼び寄せたっていうんだ」
思いがけないような声がすぐ近くでした。
「私が呼び寄せたのです。黒い使者を」そう静かに響く女の人の声がした。
兵士とフレイシーが両方とも振り返ると門の入り口の所に若い女の人が立っているのが見えた。その人はフレイシーと同じように真っ赤な髪の毛をしていた。だけどその髪の毛は先に行くほど色が薄くなっていき最後には透明になって消えていってしまっていた。女の人の足下も透明だった。それはフォログラフィーのようだった。
「砂の姫、なぜここにくるのです。たとえ仮想の実体であっても危険です。さあ早く門の中に」砂の姫は手を伸ばすと彼の口をそっと塞いだ。すると兵士の目はまどろむようにぼんやりとかすみ始めた。
「さあ、あなたはその子の髪を放してあげなさい。それからすぐ塔に戻り兵士に黒い使者がやってきたことを知らせなさい」
「迎撃命令ですか?」
「いいえ、ただ待つのです。今のところは」
兵士は投げつけるようにフレイシーの髪の毛を放すと彼女は痛くて悲鳴をあげた。それにもお構いなしに彼は城壁の中に駆け込んで行った。
「ごめんなさいね。手荒なことをして。でも仕方がなかったの。あなたには話したいことがあります。だけど、今は時間がありません。黒い使者がここに到着してしまいます。あなたはそこの石の柱の影に隠れていなさい」
砂の姫は城壁の脇にある先端が砕けてしまったオレンジ色の太い石の柱を指さした。フレイシーは投げ出されたあと四つん這いになったままで動こうとしなかった。「さあ、早く行きなさい。さもないと間に合わなくなる」砂の姫は彼女の手をそっと握った。その手はなんだか温かくてフレイシーは泣き出したくなった。
「あなたはミーレを殺したのにどうして私にはやさしくするの?」そう震える声で言った。「それには訳があるのです。さあ、はやく隠れていなさい」
だんだんと辺りが薄暗くなり始めていた。何か巨大な物が砂の上に降り立つ音がした。フレイシーは怖くてそちらの方を振り返らずに急いで柱の影に走った。
そこから姫の方を見てみると彼女は近づいてくる大きな黒い影に比べてとてもちっぽけに見えた。その黒い影はよく見ると人間に似ていたがとてつもない怪物のようにも思えた。背中には二枚の大きな黒い羽根が生えていて体には黒い炎のような毛が生えていた。腰のあたりには金色に光る腰巻きを巻いていた。顔はよく見ると繊細な顔立ちでむしろ美しいともいえた。だけどその目に光る憎悪の表情は全てを台無しして醜くみせてしまっていた。それが黒い使者らしかった。
姫と黒い使者はしばらく話し合っていた。だが話し合いは意外な形で終わった。使者は自分の腰から剣を引き抜くと姫のフォログラフィーに向かって斬りつけたのだった。姫の姿は真っ二つに裂けて、それから消えた。
それから使者は騙されたことを呪うかのように口を開いて狂ったようなわめき声をあげた。それは遠吠えに似ていた。彼は殺戮を決心したように見えた。
フレイシーは怖かったのでなんとか見つからないように柱の影にじっとしていた。するとしばらくして空気を激しく切り裂くような音がして何かが飛び立っていったのを感じた。彼は去ったようだ。ほっと息をついて顔を上げるとすぐ近くに姫のフォログラフィーが浮き出ていた。彼女の腕から赤い血がしたたり落ちていた。姫の顔は今にも気を失いそうに真っ青になっていた。
「黒い使者の剣はたとえ自分の姿がフォログラフィーであったとしてもその間を通り抜けて切っ先は届くのです。たとえ、その間でホンセ・リーラーが身を挺して守ろうとしても」
フレイシーは泥だらけになった顔を手の甲でぬぐった。その手には血がついていた。
「あなたは一体ホンセ・リーラーをどうするつもりなの。彼を奴隷のようにして閉じ込めて、せっかく友達が出来ても奪うばっかりで」
姫の幻のフォログラフィーは今にも砕けてしまいそうだった。
「そうね、たしかに彼は私の奴隷なのかもしれない。だけど私の方が彼に捕らわれているのかもしれないわ。彼の役割は門を閉ざすことだから」
「あなたが何を言っているのかさっぱりわからないけど、あなたはミーレのことを知っているのね?」
砂の姫はそう詰め寄られても夢心地で答えた。
「そうね、私はミーレのことを知っているわ。だってホンセ・リーラーの大事な友達だったってことは、私にとってもそうだもの。だけど、だからこそ私は彼を殺さなくてはいけなかったの。それは自分の目をつぶすのと同じ事。でもそうしなければ彼はバランスを失ってしまっていた」
それを聞いてフレイシーは激しく叫んだ。
「バランスを失うですって? 彼はあなたがしたことによって傷ついてバランスを保てなくなりかかっていたのよ。そうなったら自分も死ぬしあなたも死ぬことになっただろうって彼はあとから言ってた。それなのにあんた何よ! えらそうに姫とかいって、ただの監獄の番人じゃない。あなたはそこに自分も閉じ込めているだけ。自分自身を守るために」
姫のフォログラフィーは哀れんでいるような表情を浮かべて彼女のことを真っ直ぐ見た。
「そうね、フレイシー、あなたの言う通りよ。すべてホンセ・リーラーから聞いたわ。あなたのことも。彼があなたに自分の部屋の鍵を渡したときあなたが恋人からそれを受け取ったように喜んでいたっていうことも」
それを聞いてフレイシーは頭を殴られたようなショックを感じた。彼は全て知っていることを話してくれていたんじゃなかったんだろうか。ホンセ・リーラーと砂の姫、二人の存在はお互いが入れ子になっているということにようやく勘づいてきた。彼らはお互い敵同士で恋人同士でそしてお互いが母であり子であるのだろう。そうやって守り合っているのだ。そこまで考えてようやく少しフレイシーは気分が落ち着いてきた。だけど、フレイシーはこう言い放った。
「あなたたちは好きにやっていけば良い。だけど、私はホンセ・リーラーを信じるしミーレを信じる。だからミーレのことを殺した事を私は許さないから」そう言って彼女は地面に落ちている石ころを拾って砂の姫に向かって投げた。
石は透明な彼女の体を通り抜けて向こう側の壁にからんと音を立ててぶつかった。だけど、石がぶつかった瞬間、少しだけ彼女の姿は揺らいだ。彼女の腕から、より一層たくさんの血がしたたり落ちていた。姫は肩で息を吸いながら言った。
「あなたが、感じている憎しみもやがて消えていくでしょう。私が消えることがあれば。この先黒い使者は何度もやってくるでしょう。彼は呼ばれた理由を勘違いしていたようです。私は彼のことを説得できなかった。彼は復讐としてこの国の住人を襲うと言ってきました。私とホンセ・リーラーは可能な限り国民を守るつもりです。さあ、あなたは帰りなさい。また使者がやってこないうちに」
そう言う姫の姿は、はかなげで責めたことを悔やませるものがあった。だけど言ったこと自体をフレイシーは後悔していなかった。
「国を守ろうが破滅させようが好きにすれば良いわ。だけど、私はあなたのことが信じられない」
「分かったわ…それで良いのよ…」
そのあと姫は口を開きかけたがそこで姫のフォログラフィーは消えてしまった。彼女には仮想の実体を保つ力も疲れて残されていなかったのだ。
フレイシーは地面にある兵士に引っ張られたときに抜け落ちた自分の赤い髪の毛の束をしばらく見つめていた。それは小さな炎のように見えた。
「結局、姫の下僕についてとか全く分からなかったな。だけど、ホンセ・リーラーにもう一度会って話を聞かないと」そう呟いてから彼女は早足でその場を後にした。そうしないとまたさっきの嫌な兵士が城門から姿を現して彼女を痛めつけるかもしれなかったから。
「やっぱり自分には何の力もないのかもしれない。でもそれでも出来ることはなにかあるはずだわ」
彼女が街にたどり着くとそこには人っ子一人いなかった。黒い使者に若い男の子が連れ去られて、そのあと外出禁止令が出されたからだ。
それからまた一年ほど時間がたった。
その間は全くといって良いほど不思議なことは起きなかった。たまに黒い使者が訪れて大砲が撃たれる音がしてそして誰かが連れ去られてしまうといったこと以外には。だけどイルミスが怪我をして帰ってきたときから何かがまた起こり始めたのだった。