3章 4 チャンネルLOP
それから一杯だけ合成コーヒーを飲むと、フレイシーはミーレから送られてきた鍵を使ってみることにした。
まず守護コンピュータのすぐ下にあるチャンネルLOPにアクセスしなければならない。そこは緊急医療システムの受付カウンターになっていた。「確かに病人はいるのよ、サボテンから生まれたコンピュータと天使みたいなAI、それに国で一番偉い狂い始めたAI、彼のことを私が診てくれって言ったら話を聞いてくれるかしら」
とりあえず、偽物の申請書を送信して様子を見ながらつぶやいた。患者名にはイルミス・アングロードと書かれていた。トイレに行ったときに膀胱に妙な違和感があるということにしてあった。実際にはそんなことは一つもなかったがこの際仕方がなかった。
「もしホンセ・リーラーが私の気を引こうとして犯罪的なことをやらかしてるって事が知られてしまったら、返って逆に私の方が犯罪者として捕まってしまうんだろうな。私が彼のことをたぶらかしたとかそういうことにされてしまって」
今からやろうとしている大それたこととは関係なしになんだか一瞬だけ愉快な気分になった。
「あとでお兄ちゃんの膀胱はやっぱり大丈夫だった、気のせいみたいだっていう申請を出しておかなきゃ。そうしないと本当に医療ロボットが派遣されてくるかもしれないし」突然、自分の家にロボットが現れてイルミスの局部を無理矢理露出させて調べられているときの様子が頭の中に浮かんできて笑い出しそうになった。「いけない、今はそんなときではないんだ」
フレイシーは偽の申請書を送信して画面がグレーアウトした瞬間からカウントを取り始めた。よく画面を見ているとその灰色の部分が4秒おきに脈打つように変化しているのがわかった。
ミーレの言うとおりだ。こんなところに守護コンピュータの脈拍が現れているなんて誰が気づくだろう。「自分の国のすべての人に脈拍を知られるような状態になっているのに彼自身も気づいていないんだろうな」
画面が脈を打った瞬間からちょうど3秒半たったときにトリガーが引かれるようにキープログラムをセットした。
「これでもしうまくいかなかったらどうなるんだろう。守護区域侵入罪で捕まるんだろうか。もっともここ100年そんな罪で捕まった奴なんていないらしいから、間抜けなことに放っておかれるかもしれないけど」
そう考えている暇もなく、キープログラムの中の虹色の瞳孔が開かれた。その瞬間灰色だった画面は真っ白になった。それが守護コンピュータが目をつぶっている状態なのかよく分からなかったけど、フレイシーは急いで前に進んでみることにした。
それから先、青空のように輝く扉、次に大きくKと書いてある扉、それに雲のような煙に取り巻かれている扉をくぐり抜けた。最後の扉がちょっとだけ難関だった。「たしかミーレは猫が引っかいたような傷のある扉って言ってたっけ」だが、フレイシーの目の前にある5枚の扉はみんな同じように古びて傷だらけだった。どうやって選べばいいんだろう。もし間違って別の扉を開けたら一体どこにつながっているんだろう。だけど、それがどこであったにしても、ホンセ・リーラーの所以外に行ってしまったら、彼に会えなくなってしまうことだけは分かった。そう、永遠に会えなくなってしまうのだ。そうなってしまったら、先生の魂は本当に滅びてしまう。そんなこと言ったらAIに魂なんてものはかけらもないはずだと思う人もいるだろうけど、フレイシーはそうではなかった。彼女は何とかしてエイテルシー先生を助けたかったのだ。
臭い、そうだ臭いだ。ミーレはほんの少しの目印を残しておいてくれたはず。実際彼がここを通ったことがあったなら。しかし、プログラムで書かれた架空の扉に臭いなんてあるんだろうかとか頭の片隅で思いながら、臭覚感知プログラムをロードしてみた。それから、幻の扉を一枚ずつクンクン嗅いで回ってみると一番左の扉だけほんの少し獣の香りがしている気がした。たぶんそれは猫の香りなのだ。ミーレありがとう。そうつぶやきながら彼女は扉をくぐった。でもくぐる瞬間この臭いをつけたのはミーレではなくホンセ・リーラーなのではないかということにやっと気がついた。ということはこれは罠なのかもしれない。
「でも、たとえ罠だったとしても彼はきっとそこにいるはず。それだけで十分だわ」
扉を開けてみると中は真っ暗で何も見えなかった。
フレイシーはたとえ扉の向こうに何が待っているとしても言うべきことはきっちり言ってやろうと拳を握りしめた。「そうだあいつは好き勝手なことばっかりしたり、言ったりしてるけど、それがどんなに危険なことか分からせてやる」
フレイシーが中に入ると後ろでひとりでに扉は閉まった。だけど、彼女は振り返らなかった。もうどっちでも良かったのだ。それに彼がここから出すつもりにならないと出ることは出来ないだろうし。
たとえ端末の電源を切ったとしても、フレイシーの魂をスクリーンの向こう側に格納したままになってしまうだろう。そう彼女は深く入り込みすぎてしまったのだ。彼女は入ってくるときに視覚プログラムと聴覚プログラムを使ってしまっていた。それはスクリーンだけでなく実際の生身の感覚にフィードバック出来るようになっていた。それはスクリーンなどで見るよりも鋭敏な感覚を与えてくれたけれど、とても危険であるともいえた。「先生はだからそれを使うとき気をつけなさいっていつも言ってたじゃないの。そんなのはAIにとってだけ危ないことなんだって思ってたけどそうでもなかったのかも」
いつもだったらそれはほんの少しの感覚拡張の感じを与えるだけだったのに、フレイシーはその真っ暗な部屋の中に本当に立っている気がしてきた。自分が安全な家の中で本当は端末に向かっているだけだってことも分からなくなってしまっていた。それなら決着をつけるためにはどうしてもホンセ・リーラーに会わなくてはならない。今起きていることは彼の望んだことなんだろうから。
あのやさしいミーレのくれた鍵にこんな毒みたいな効果があるなんて思ってもみなかった。ミーレはそのことを知っていたのだろうか。でもフレイシーは彼がもしそのことを知っていたら、それを教えてくれたはずと思いたかった。今になってみるとあんなちっぽけなサボテンから出来たAIと傲慢で高慢ちきな女のためにここに来たことがばからしく感じた。
そうこう考えているうちに部屋の中にやっと目が慣れてくると、部屋の中央に半透明の霧が立ちこめているのが見えてきた。だけど、霧の周りは立方体にすっぱり切れていた。そこがホンセ・リーラーの我が家なのだ。
彼女は寒くて自分の息が見えるようだった。ハーと一つため息をついてから、彼女は言った。
「いつまでそこに隠れているつもり? ホンセ・リーラー。
あなたはそこに隠れて、外の世界に何が起こっているのか、ただ見ているだけ。何もすることも出来ない。ただ自分から牢獄に閉じこもっているだけ。あなたは夜になると巣穴から飛び出るサバクネズミほどの勇気も持ってないじゃない」
何の返事もなかった。
「そうか。確かにそうよね。あなたはサバクネズミとは違って外に出る必要もないわけよね。命の危険を冒して餌を探す必要もない。あんたたちはもう死んでいるんだから」
すると霧の立方体の中からではなくフレイシーの背後からクスリと笑い声がした。
「すまないつい笑ってしまったよ。フレイシー。もう少し待っていたら君はあの霧の中に拳を握りしめながら突進していくんじゃないかと思って待っていたんだけど」
そこでホンセ・リーラーは少し間をおいた。それでもフレイシーが自分の方を振り返ってくれなかったので彼はいらいらし始めたようすだった。
「君は僕が自分勝手だと言いたいんだろう。でもそれは本当は君の方さ。君があのかわいそうなサボテンで出来たプログラムを作ったのもそのためだったんだろう。彼を使って僕のことをたぶらかしたじゃないか」
「フン、たぶらかそうとしたのはあんたのほうじゃない。あんたはただ、さびしくて仕方がなかったんでしょ。確かにこんな真っ暗な部屋の中でただ世界を見守っているだけなんて頭がおかしくなっても当然だと思うわ」
フレイシーは彼が怒っていきり立って、つかみかかってくるんじゃないかと少し身構えた。だけど、あるのはただ沈黙だけだった。そこで初めて彼女は振り返った。
そこに見えたものが信じられなくてフレイシーは何回も目をこすった。それはとても小さくて暖かいものだった。今までそれを生きていた中で何度も何度も見ていたはずなのにそれが何なのかすっかり忘れてしまっていた。少なくともその瞬間だけは。
フレイシーは手を伸ばしてそっと触れようとしてみてやっぱりやめてしまった。それからまたそれにくるりと回って背を向けると話し始めた。
「あなたの姿を見ているとなんだかつらくなる。なんででしょうね。たぶんあなたは哀愁をさそう姿、それでいて野蛮な苦しみを感じさせる姿、そんなもんなんでしょう。
私が今日ここに来たのはあなたと話をつけるため。あなたは私の先生の魂を今すぐに解放すべきよ。もう目的は果たしたんだから満足してほしいの。そう、私はあなたの存在を信じた。そのためにあなたはあの手この手で私のことを誘っていたんじゃないの?」
またこのままずっと沈黙が続くんじゃないかというぐらいの時間がたってから声がした。
「そうか、君はそう思うんだね。それならそれでいいよ。
君の大切なエイテルシー先生は解放してあげよう。それに君はここまで来てくれたんだから、もう一つ大事なことを教えてあげよう。確かに私がしたことは君が思う理由だったのかもしれない。だけどそうではなかったのかもしれない」
そこでしばらくまた間が空いた。いつの間にか直方体の形に閉じこめられていた霧は消えてしまっていた。辺りはクリーム色の光に満ちていた。だけど、それはそんなにいやな感じじゃなかった。ミルクの臭いにくるまれているように安心する感じだった。
その中でまだホンセ・リーラーの声は響いていた。
「そうだね。確かにそうだったのかもしれない。だけど、私には役割があった。それは私であり私でないものを守らないといけないということだった。私が今していることはそれに関係があるということだ」
フレイシーは何か聞きたかったがなぜか口が動かなかった。「すまないけど、今はなにも聞かないでほしい。いつか言うべき時がくるまで」
だんだんと声がかすれてきて彼の姿が消えていく感じがした。振り返ってみると彼の姿はそこにはなく、そこには真四角な穴があいていた。穴の向こう側はオレンジ色の光に満ちていた。それは眠りに誘うような光だった。
たぶんもう帰ってくれということなんだろう。
そこをくぐり抜けようとしたときまた声がした。今度はなんだか明るい調子だった。
「そうだ君の友達のミーレを助ける方法を教えてあげよう。彼は僕にとっても友達なんだ。君が彼を砂漠の中で見つけたとき彼は何色だった?」
「ピンク…そう綺麗なピンク色だった」
「ピンク色か。もしそうなら彼の寿命はもう尽きる間近なんだ。ピークルというサボテンは3年しか生きられない。ちょうど2年目にさしかかったときピークルはピンク色になる。彼がまだ野生の環境にいたなら今はもう真っ赤になっているだろう。それがピークルが死ぬ時なんだ」
「じゃあもうどうしようもないのかな。枯れるのを待っているしか」
「だけど一つ延命させる方法があるとしたら、彼らの冬眠する性質を使ってやれば良いということさ。そこまで分かれば君の大事なエイテルシー先生と話し合えばあとは分かるだろう」
そう言い終わらないうちに声は完全に消え、彼女の背中は見えない何かにそっと押された。
フレイシーはそれに逆らうつもりはなかった。
オレンジ色の光に満ちた穴に飛び込んでしまうとあとは意識を保っているのが難しかった。眠くて仕方がなくなってしまったのだ。
あと彼はこうも言っていた。「ここでみた私の姿が何であったのか秘密にしておいてくれ」と。「分かったわ」とフレイシーは夢心地で答えた。「でも、あれが何だったのか、わかんなかったんだから誰にも言えるわけないじゃない。でもあれは確か…」
そのあと彼女は心地よい眠りにいつの間にかついていた。