2章 1 砂の中の学校
うーん。とフレイシーは一人でうめいていた。あたりは薄暗くてほとんど何も見えない。ただ、部屋の真ん中あたりに亡霊みたいに女の人の姿が浮かんでいた。それともその人はあんまりにもきれいな金髪だったから、天使みたいとでも言えばよかっただろうか。でもそれは人工の天使だった。そう、人造の理想的な天使、完璧な先生だった。それに先生の姿は現実に存在しているわけではなかった。それはプログラムが作り出した一種のフォログラフィーだったのだから、より一層天使的ともいえた。だけども、しゃべっている内容は高度な人工知能が決めていたのだから、極端に現実的な思考しかできない代物だったのだけど、それでも地下で過ごしている実際の大人たちと比べれば、比べものにならないほどましだった。もっともそんな物わかりの悪い子供たちに勉強を教えるといったような面倒な仕事のために大人たちは地上にやってくるはずはなかった。
そういう訳でフレイシーたちは暗闇の中でその天使のような先生を囲んで座っていた。今は物理学の授業の最中だった。
「うーん。やっぱりなんだかよくわかんない」今度はさっきよりもずっと大きい声でフレイシーはつぶやいた。
「なんです。フレイシーさん。質問したいことがあったら言ってください」
生徒たちの頭の上を光輝くブーメランがゆっくりと回っていた。先生はさっきまでそのブーメランがなぜ旋回するのかその原理を静かに説いていたのだった。
しばらくたっても何の返事もない。部屋の照明が一時的に明るくされ、フォログラムが作り出した仮想のブーメランの姿が揺らいだ。だけど、先生の姿は光の下でも十分鮮明だった。
「フレイシー・アングロードさん。聞こえていますか?」
教室に座っていた、生徒たちの視線がフレイシーのところに集まって、彼らはざわざわ言い始めた。
「え? なんですか先生。私、何か言ったでしょうか?」
「フレイシーさん。あなたは私が話しかけても返事をしませんでした。あなたは授業を受けるつもりがあるのですか?」
フレイシーはびっくりして立ち上がると、ちょっとおろおろして周りを見てみた。クラスメートたちはつまらなそうな顔をして、目だけはフレイシーの方を向いていた。そういうときの人間の目って真っ黒な感じでなんてイヤな感じなんだろう。フレイシーはそう思った。
「いえ、なんでもありません。すみませんでした。授業を続けてください」
彼女が先生の方を見るとその姿が一瞬だけゆらいだ気がした。いつもそうだ。幻の奴らはにらみつけたら、怖じ気付いて一瞬だけいつも凍り付く。だってあいつ等は生きていないんだもの。しょうがないわよね。
「分かりました。授業を続けます。フレイシーさん席に着いてください」
また照明が落とされ、光輝くブーメランがさっきよりもずっとゆっくりと周りはじめ、先生は何事もなかったかのような微笑を見せていた。少し間を空けてから先生は話し始めた。
「ブーメランが旋回する、物理的な要素は結構微妙です。鳥が羽ばたく力と頭をもたげ向きを変えていく力が合わさっています。もっともそれはブーメランの意志ではなく、もともとの形の中に回る方向が示されているのですが、言い換えれば形の中にもともと意志が示されているともいえるでしょう…」
なにが意志だって、あんなものが意志を持ってるはずないじゃん。そんなことより大事なことはイルミス、あいつのことだ。あいつはたぶん何かを隠しているのに違いない。大体奴は前から変だったけど、最近はそれどころじゃないわ。そう、あの時、肩をけがをして家の前に倒れていた時から。フレイシーはノートを広げると暗がりの中でほとんど見えないのに、なんだかよく分からない不思議な記号を書き始めた。円を描いてそこから矢印。行き着く先は落書きみたいな男の姿だった。たぶんそれが、イルミスを表しているのだろう。
「あいつはこれまでだったら、秘密になんてしなかったはずだ。でも、もしかしてほかにも秘密があったのかもしれないけど今まであたしが気づいていなかっただけなんだろうか。でもまあ、今はそんなことはどうだっていいや。今日の夜、問いつめてやる。奴は根性なしだから女の迫力にはきっと対応できないはず」
そこまで考えるとフレイシーはフフッと少し笑い声をあげた。今ちょうど遙か昔に滅びてしまったジェットエンジンのフォログラフィーが出てきて轟音をあげていたから、全然先生にだって聞こえないはずだった。黙ってエンジンの吹き出す炎の噴射を見守っていると、轟音のボリュームが徐々に絞られていって、また先生の静かな声が聞こえ始めた。ほんとに静かな声だ。真夜中に家の中で目が覚めたときに聞こえる、ポチャンと水の垂れる音みたい。静かな音だけど、どこか耳障りで消したくなるような音。そうやって少しうっとりしてとてもきれいに光って見えるコールド・エイテルシー先生の姿を見つめていると、また照明が明るくなっていった。フレイシーはまた怒られるのかと思ってちょっと首を縮こませた。
「はい。これで今日の授業は終わりです。宿題を忘れないでください。何か質問がある人はあなたたちの持っている端末のチャンネルをFOP35に合わせてローエンジェルをコールしてください」そこまで言うとエイテルシー先生の姿は掻き消えてしまった。ローエンジェル、法の天使かあ。やっぱりあいつはいかれてる。
生徒が席を立つ音がざわざわし始めたが、彼女は気にせずに天井に開けられた天窓の方を見上げた。ドーム上の部屋の天辺からまだ薄い水色の光が射し込んでいた。その光は目が痛くなるようなフォログラフィとかの人工の光とは違っていたからやっと少しほっとした。だけど、誰かの影が彼女の上に覆い被さってきた。なにすんのよ! そう言いかかったが口ごもった。トリローファスの姿だった。
「よう。おまえ大丈夫か。授業中ぼーっとしてたし、熱でもあるんじゃないか」
「畜生、いちいちうるさいわね、放っておいてよ!」彼はフレイシーの方を見下ろしながら、またいつものヒステリーが始まったのかとあきらめ加減だった。
トリローファスは体にぴったりと合ったタイツのような服とマントを羽織っていた。それは不自然な銀色の光を帯びていた。まるでシリコンウエハースから切り出されたような光だった。彼はそれを着ていさえいれば服を脱がずに日光浴できた。彼らに必要な太陽光の波長だけ選別してその布は通すように出来ていたのだ。そのおかげでウイルスのピカテリア・アカフズのせいで裸にならずにすむのだから、子供たちは誰でもその服を心の中ではすごく欲しがっていた。
その服を着ていられるのはある種の特権階級を意味していた。大人たちは地下で子供たちのためにせっせといろいろな物を作り出していたのだが、その生産力には限界があって、より良い物を受け取れるかどうかにはその親たちの力関係が影響を及ぼしていた。
それがいつのまにか階級みたいな物を生み出していた。建前上はそんなものは必要ない世界だったのだけれども。
トリローファスはそんな滅多に手に入らない布で出来た服を自信満々に着ていた。でもそのタイツを着ている彼がどんなに滑稽に見えているのかフレイシーはいつか言ってやりたかった。彼女は自分の着ている麻の服の手触りとか臭いのほうがずっと好きだったし、あんな銀色の金気の混じった臭いの物を着るなんて死んでもイヤだった。
彼女はトリローファスの方を絶対見上げないように気をつけながら言った。
「一体何の用?」
「そんなにカリカリすんなよ、フレイシー。君が喜ぶような話を持ってきたんだ」
「喜ぶって何よ? この前の汚い剣をもう一本あげるよとかそんな話だったらごめんだわ」
トリローファスは意外な話を聞いたようにキョトンとしていた。だけどそれは一瞬だけで上機嫌さは変わらなかった。
「一体何だい? その汚い剣って奴は。
僕が今日持ってきたのは、実際に存在するものじゃなくてちょっとした情報さ。君はこの国のホストコンピュータであるホンセ・リーラーについてもっと知りたいっていってただろ?」
フレイシーは鼻をフンと鳴らした。
「ホンセ・リーラーね、くだらない。そんなことばっかり考えてたら、うちのお兄ちゃんみたいになってしまうわ」
そう言いながらも彼女は初めてトリローファスの目を見た。彼はうれしそうににんまり笑うとかがんで口をフレイシーの耳に近づけてきた。彼女はその不快な息に一瞬だけ身を震わせたが、結局我慢した。彼女だって好奇心には勝てなかったのだ。