十六章 偽物の忘却
次の日の朝リルファーは仲間のプラックスの一人に肩を触られて起こされた。彼女の中の不安な気分が酷い頭痛を引き起こしていた。彼らはリルファーに軽く挨拶をし終わると部屋を出ていった。リルファーはもう彼らの白くひび割れかけた粉をふいた顔を見れなくなるのだろうと思うと少し寂しく思った。
彼女は自分も起きてこれから行かなければいけない所に行く準備をしなければと思ったが、頭痛のせいもあって全て忘れて眠りたかった。そうやって一人で寝ころんでいると虹の息の部屋のことを思い出した。あそこにいた黒い虹達は今は誰の上を飛んで苦しみの言葉を投げかけているのだろうか、それとも、私が寝ていたときのままにまだからっぽのままなんだろうか。いつまでベッドの中で待っていても昨日の係のプラックスはやってこなかった。きっと忘れてしまったのだろう。仕方なしにリルファーはベッドからもそもそ起きあがると、裸足のまま廊下に出た。昨日の夜の間に誰かが部屋の中に入ってきて、彼ら全員の靴を取り上げたのに違いがなかった。またコーラルに貰った物が一つなくなってしまった。彼女は、はっとして自分のポケットに手を突っ込んだが、その中にはちゃんとクリンプクスの瓶があってカチャリと音を立てた。それにコーラルから預けられた手紙もあるのを手触りで確かめた。
廊下に出てみると誰もいなかった。沢山の部屋の扉とこの階にやって来たときにくぐった扉が全く同じだったので下に降りる階段さえどこにあるのか分からなくなってしまった。彼女は大声を上げながら全てのドアをノックして回ればすぐに問題は解決するだろうと思ったが、よく見ると床に敷き詰められている黒い灰には足跡がたくさん残っていた。多分、階段につながるドアは一番利用されているだろうから、床の灰が削り取られているかもしれない。そう思ってドアの下を一つずつ見て回った。扉は最初は白い色だと思っていたが、ほのかに薄緑色に光っているようだった。沢山の木の葉の彫刻がされていた。その中に小さな芋虫さえ彫り込まれているのに気が付いた。ということはこの葉はこれから全て食べ尽くされてしまうのだろうか。
「そうだ、この中でさっきの大人のプラックス達の時間が芋虫たちに食い荒らされて、子供の姿に戻って行くんだ。この中には何があるんだろう? でも、私は何が行われていようともそんな物には興味はないわ。そんな恐ろしい物は見たくもない。」
リルファーはまた時間が一瞬止められたような不愉快な感じを覚えながら一番灰が深くえぐれている戸のノブを握るとそっと回した。戸の向こう側には薄暗い階段があった。
差し当たってどこに行けば良いのか分からなかったので、最初この塔に来たときに入った偽物の父親とやらの部屋を探してみようと思った。それは一階にあるはずだ。
階段はぐるぐる回りながら落ち込んでいった。全ての足音は不気味に地面に吸収されていった。リルファーは自分の足音で自分が歩いているのをいつも確かめていたから、本当に自分がそこにいるのかどうかさえ分からなくなっていた。すると下る階段が目の前から不意にとぎれた。一番底にたどり着いたらしかった。彼女はドアのない狭い横穴に気付くとそこに潜り込んだ。横穴の壁の白い塗料はとっくに剥がれ落ちていたので中の黒くて醜い地肌が見えていた。それは土の匂いにも似ていたが、そんな安心感のあるものではなかった。その中にはほとんど何の光も射し込んでいなかったから、真っ暗だった。リルファーは壁を手で伝いながら、前に少しずつ進んで行った。そしてその嫌な匂いにもやっとなれ始めた頃、手が木のドアに触れたのを感じた。自分が偽りの父親のいる階をとっくに通り越して降りてきていることに彼女は全く気付いていなかった。だが、その息苦しい暗闇から一刻も早く抜け出したかったので、必死でノブを探し、それをめちゃくちゃに揺さぶった。ドアはミシミシ悲鳴を上げていたが、いつの間にか開いていた。
ドアの向こう側にはとてつもなく広い部屋があった。そこは白くて綺麗な光で満たされていた。天井はドーム型で柔らかなベールが何重にもかけられているように岩の形がとろけていた。リルファーはそれをもっとよく見たかったので、部屋の真ん中の方に歩いていこうとした。すると、足が地面にめり込んでもう少しで倒れそうによろめいた。塔の上の方で見た床に敷き詰められた灰がここではうずたかく砂浜のように積もっていたのだ。今度は気を付けて前に進んだ。ここの灰の粒はとても大きくて踏むとザクザク音がした。部屋の中央に近づくにつれて、リルファーの目の前に青い影が現れて、それが濃くなっていった。最後にその影の目の前に立つと、それが人であることに気が付いた。髪の毛は灰色をしていて、とても長かった。リルファーはもう少しでその影に「コーラルなの?」と聞くところだった。それほど彼女に雰囲気がよく似ていたのだ。その人は突然現れたリルファーに別に驚くそぶりも見せずにじっと彼女のことを見下ろしていた。
「あなたね。新しい性質を持ったプラックスって。あなたのことはコーラルから手紙で聞いているわ。死の子供に自分の力だけでなれるプラックスがまだいたなんて信じられないけど。」その人の声は金属を叩いたように鋭く低かった。ぎらぎらと輝く青い目はリルファーを消し去ろうというように睨み付けていた。彼女は何のことか分からずにただ黙っていた。またその声がいらいらしたように言った。
「私はアマ・エムルスルダといいます。死の子供達の教師よ。私はプラックスだけどコーラルと同じ特異体なの。いまだにレザラクスの性質が抜けないのよ。どんなにそれが醜いかって事は分かっているけど仕方がないのよ。」
リルファーは自分の耳を疑った。「あなたがアマ・エムルスルダ? どうして・・」
そのプラックスは相手の言葉を乱暴に断ち切った。「アマ・エムルスルダは二人いるのよ。私たちの名前は決して重なることが無いとされているけど、まれに例外がある。本当にどうしてあいつと私が同じ名前なのか神様に問いただしてやりたいわ。」
どうもコーラルが言っていたのはこのプラックスの事だったらしかった。早まってもう一人の方に手紙を渡さなくて良かったとリルファーは思った。彼女はポケットから皺だらけになった手紙を取り出すとアマの前にそっと差し出した。それを見て彼は一瞬顔を引きつらせたが、手紙を手に取った。宛名を見ると嬉しそうに声を上げた。「ああ。コーラル。彼女は私にまた手紙をくれたのね。有り難う渡してくれて。イレアラ・カルス。」
リルファーはそう言われてそれが今の自分の名前だということを忘れていたのでしばらく呆然としていた。アマはそれに全く気付かずに手紙を開けようとしていた。だが、手紙の口を裂く一瞬前に手を止めると、それを自分のポケットの中に押し込んだ。彼はリルファーの方に向き直った。「さあ、ここに来たからにはあなたにも授業を受けて貰わないと。もっとも、私たちがレザラクスだったときに受けたものとはかなり違っているけどね。」
彼はリルファーに背を向けて歩き出した。リルファーはそれにあわてて付いていかなければならなかった。もしそうしなければまたさっきみたいに彼の体が白い光に包み込まれて影のようになって見えなくなってしまうかもしれなかった。しばらく進むと壁が見え始めた。白くてつるつるした壁の地面に近い所に水平に不思議な明るい赤や紫の光の一本の線が見えた。それは生きているようにきらきら脈打っていた。それは近づくにつれて意外なものに変わっていった。その虹の周りにハイエナのような黒い影が何匹もうごめいていたのだ。そしてそのハイエナたちはアマが近づいていくと皆、無表情な笑みを浮かべて彼のことを振り返った。その頭の毛を短く刈られた者達は少し寂しそうな表情をしたが、アマが「続けなさい。」と静かに命令すると嬉しそうに作業に戻った。
「彼らは何をしているの?」リルファーは呟いた。振り向いたときの彼らの口の周りにはべったり赤いものが付いていた。光の筋をみんなで食い荒らしているとしか思えなかった。
アマはその様子を満足そうに眺めながら言った。「彼らが君の仲間達、死の子供達だよ。彼らが何をしているのか分からないのかい? 別に珍しいことをしているわけじゃないさ。いつも私たちがしてきたことをしているだけだ。ただ、壁に落書きをしているだけなんだ。」
よく見るとその小さなプラックス達の手にはクレヨンの様な物が握られているのが見えた。それを両手で持つのに飽きたらずに口にくわえている者もいた。それがさっき血に見えたのだ。「君は今日からあの中に加わるんだよ。」アマはそうできるだけやさしく言ったつもりだった。ここにきたプラックス達はこれを見るとどうしたわけか面食らって怯え出す、ただ絵を描いているだけなのにだ。もっともその怯えは本当は正しいものなのかもしれなかったが。リルファーはそんな狂人達の群の中にどうやって混ざれば良いのか見当も付かなかった。