十五章 忘却の壁
「その壁に手を触れて、思い出の形にひっかき傷を作るとき、思い出があなたを殺す前に、小さなナメクジがあなたを助けてくれる。だから、あなたは生き延びられる、ナメクジが思い出を殺し、それを食べて、生き延びていくのと同様に。」
レザラクス 教則 27
リルファーが他のプラックス達と馬車を降り、白い塔の中に入ると、沢山の子供達のわめき声がこだましていた。その地面の下をくぐり抜けてくる声はリルファーを不安にさせたので、彼女は大きなプラックス達の群の一番最後に並んで付いて行った。細長い廊下の壁は塔の外側と同じ様に白く塗られていたが、床には黒いサラサラした何かの灰が敷き詰められていた。それは塔がペンキの下に隠す本当の皮膚ではないかとリルファーは思った。ちょっとでも壁を強くひっかいてやったら、壁の皮が剥がれて、巨大な塔が崩れ落ちてしまう所を想像して、塔の立てる空想の悲鳴に苦しめられていた。天井はバターが溶けてしまったときと同じ形をして大きくすべらかに窪んでいて、白い日光が虚ろにふらついていた。
灰の中に彼らの足音は全て吸収されてしまったから、中にいる人は彼らが来たことに気が付かないのではないかと、プラックス達がささやきあっていると、廊下の十字路の所に誰か立っているのが見えた。リルファーにはそれがプラックス達の背中が塞ぐ向こう側にしか見えなかったから、その人が着ている青いマントのすそぐらいしか見ることが出来なかったが、その激しく輝く青い色はじっと見ていると彼女に苦痛を感じさせた。この場所で自分に待ち受けている途方もなく嫌なことをその色が予想させる気がしたのだ。
奥の方で青いプラックスと一緒に来たプラックスの先頭の者が何かごしょごしょささやきあうのがリルファーの所まで聞こえた。しばらくして話が付いたのか、列が前に進み始めた。プラックス達は青い男に自分の名前を伝えているようだった。男はノートにそれを一人分ずつチェックしていくと、プラックス達は廊下の十字路を右側に曲がって行った。最後のプラックスが右に曲がって姿を消すとリルファーの番になった。
彼はノートから顔を上げると初めてリルファーがそこに立っているのに気が付いた。それで、いかにも怪訝そうな顔をして聞いた。
「なんだお前は、もう死の子供になりかかっているのか。こっちとしては手間が省ける分有り難いが。とりあえず、名前を教えてくれ。」
リルファーはこの誰だか分からないプラックスにコーラルから預かってきた手紙を渡すべきか迷った。多分アマ・エムルスルダを見つけて直接渡した方が良いような気がした。このプラックスはとても信用できそうになかった。リルファーが黙っていて何も言わないので、彼はいらいらして怒りだしそうだった。彼が憎しみの口を開いたとき、リルファーは自分の偽物の名前を言った。
「イレアラ・カルスです。見ての通り死の子供に返ってしまいました。ここに来るのをとても急いだのですが。」
「ふん。まあ、良い。これからすぐ院長に会ってもらう。死の子供の偽りの父親だ。ダレウ・チダという名前だ。覚えておいてくれ。それで私はアマ・エムルスルダだ。以後よろしくな。」
リルファーは彼がアマであることにショックを隠しきれなかった。リルファーはどこかでアマもコーラルと似ているかもしれないと思いこんでいたのだ。彼女は彼に手紙を渡すことさえ忘れて、偽りの父親のいる部屋に向かった。なぜか頭がぐらぐらして廊下が彼女を歩かせたくないために身を波打たせているようだった。彼女はなんとかその波をかき分けて進むと、その部屋の金色に光る戸の重いノブに手をかけて休んだ。アマはそれを遠くから見て、「おい、お前大丈夫か?」と声をかけたがリルファーには聞こえていなかった。
部屋の中には、落ちかかった日の黄色な光が満ちていて、そのぐらいの暗さではその部屋の主はランプをつける気にはならなかったのだろう。一人の大柄なプラックスが机の向こう側に腰掛けて、こちらを見ていた。リルファーの前にここに来ているはずのプラックス達の姿が見えなかった。もうすでに尋問を受け終えて別の扉から抜け出したのだろう。リルファーも今すぐここから逃げ出したかった。彼は口ひげに囲まれた、分厚い唇を大儀そうに震わせた。そこから発せられた声色は意外にも暖かだった。
「長い旅をしてお疲れになったでしょう。もう少しで、私たちに与えられた気持ちの良い肉の床に休むことが出来ます。だけどその前にしなくてはならないことがあるのです。レザラクス達が私たちを受け入れようと心のこもった準備をするのと同様に。私の名前はダレウ・チダといいます。死の子供の偽りの父親とも呼ばれていますが、ダレウと読んでくださって結構です。失礼ですがあなたのお名前は何とおっしゃるのか教えていただきたい。」
そこで彼は自分のすべらかな言葉の音色に満足しながら、口をつぐんだ。
リルファーはまた頭を殴られたような不快感を感じたが仕方がなかった。何か言わなくてはいけない。そう私の偽の名前だ。偽の父親にいうにはぴったりじゃないか。
「イレアラ・カルスといいます。丁重なお出迎えの挨拶、感謝いたします。なぜかすでにこんな無様な姿になってしまいました。お恥ずかしい限りですが。」
ダレウはさもそうだろうと、ふふっと笑って見せた。「いえお気になさらずに、極たまにあなたのような方もいらっしゃるのですよ。とにかく今日はお休みになって下さい。明日から、少々体の方を検査させて頂いてから、ここの施設での目的を今日着いたみなさんにご説明しますので。」ダレウは目配せした。「あちらの戸から出て下さい。係の者が案内しますので。」リルファーは無言で会釈してそちらに向かった。なぜ自分がこんな奴の愛想話に口を合わせているのかとてもいらついていた。あのコーラルの注射した黒いカビの玉が何か関係があるのではないかとも思えた。戸を激しく閉めると、その向こう側にはまた、驚いた顔をした別の青いマントを着たプラックスがいた。
食堂で出された食事はとても簡素な物だったので、リルファーはほっとした。馬車で旅をしている間は脂っこい巨大なあぶり肉ばかり御者に勧められていたので、胃の調子が悪かったからだ。リルファーはそのほとんど塩味しかしない野菜スープを美味しそうに一口ずつ飲み込んでいったが、一緒に来た太ったプラックス達は明らかに不満そうだった。彼らは古くなって固まったチーズを囓りながら、部屋で自分たちが持ってきたサラミをしゃぶりつつ一杯やろうと相談していた。その楽しみも今晩で最初で最後だということに全く気付かずに楽しそうに大声を出し合っていた。リルファーはこの館にすでにいるのであろう他の死の子供達が食堂の席にに付いていなかったのが気になったが、食堂の奥にある流しに食器が山積みになっているのを見て取ると、彼らがとっくに食事を終えているのが分かった。
食堂の壁の低い所にはクレヨンで描かれたような下手な落書きがびっしりあった。ところどころ消そうとした跡もあったが、それはすぐに諦められたようだ。レザラクスの塔にもそんな落書きはしょっちゅうあったが、彼女たちは自分を守る赤いガラスの所には決してそんなことはしなかった。プラックスの死の子供はやっぱり自分たちとは違うらしいということが予感させられた。その夜は一緒に着いたプラックス達と同じ部屋のベットでリルファーも休むことになったが、なぜか不安な感じがして眠れなかった。その塔の中全てに声にならないささやき声があふれている感じがしたのだ。神の第二子宮にいたときにもそんな声がしていた。明け方になるとささやき声も止んで、やっとリルファーも浅い眠りについた。