十四章 シハレウ
「あなたはシハレウに行くのよ。」
コーラルはそう言ってから、リルファーの髪の毛を優しく切り落とした。
リルファーはなぜ自分の目の前にコーラルがいるのか不思議でならなかった。彼女はそれが亡霊であって欲しいと思わずにはいられなかった。
それに一体ここはどこなのだろうか、多分、元の時間の有る世界、恐ろしい量の時間の流れの中で彼女は今にも窒息死しそうだった。しかし、自分がなぜ生きているのか、ぼやける意識の中を必死に這いずって探し回り始めた。でも、そんなことはどうでも良かった。今はまた、タルヒナーの居る時間の牢獄にすぐにでも、戻りたいと思った。
コーラルはリルファーを狭くて薄暗い部屋の中のイスに座らせて髪を切ってやりながら、明るい声で話した。その金属板を叩く音の様な反響に不慣れなリルファーは、耳をきつく押さえて鼓膜を守ってやらなければならなかった。だが、手を耳の所に持っていくとコーラルは「危ないから手を下ろしなさい。」と静かに言った。それからはコーラルは彼女に打撃を与えないように囁き声で話すことにした。そこは物置だったのか、大きな布の袋の山の上には無数の塵が舞っていた。
「私は一人で神の第二子宮の中に入って行ってあなたを助けたのよ。最初は行ったときはあなたがどこにいるのか私には分からなかった。声を出して呼んだんだけど、あなたには聞こえなかったのかもしれない。それとも、あそこでは私の方が声を出すことが許されていなかったのかもしれないわ。あそこの中はトワンスにずっと前に聞いていた様子とはまるで違っていた。美しい光に満ちていて、牢獄などとは似ても似つかない所だって彼は言っていたけれど、最初は私には何も見ることさえ出来なかったのよ。ランプを持っていってはいたけど、その火はまるで役に立たなかった。それでしかたなしにすぐに引き返した。あそこにいたら、本当におかしくなってしまいそうだった。
でも、私は諦めたりなんかしなかった。トワンスがあそこでプラックスが物を見るには特別な眼鏡が必要になるって言っていたのを思い出したの。でも、賢明にも彼は私にそのゴーグルがある場所を教えなかったし、もし彼の部屋に私が入っていったとしたら、彼はすぐにそれが分かるに違いがなかったから、ゴーグルを少しの間も持ち出すわけにはいかなかった。私はそのゴーグルを自分で作るしかなかったの。トワンスの話を単純に考えてみるとレザラクスはあの中で部屋の姿を見ることが出来るということだった。そうであるなら、私がレザラクスの目を持ち続けているのなら、あの部屋で光が見えたはずなのにそうはならなかった。こんなことを言ったらあなたを返って混乱させるだけかもしれないけど、私とトワンスの研究はやっぱり中途半端だったってことね。私はやっぱりレザラクスで居続ける事なんて出来はしなかったのよ。リルファー、私はあの部屋の中であなたにはどう見えた?」
コーラルは彼女の背中越しにそっと聞いた。返事は聞き取りにくいほど小さくてかすれていた。
「ええ。私は確かにあなたが来たときみたわ。あなたは天井を這いずり回っていた。白くてぼんやり光っていて、あなたを通して何もかもが突き抜けて向こう側に引きずり込まれそうだった。まるで、亡霊みたいだった。私は怖くて仕方が無くて、私が居ることを気付かれないように出来るだけ息をしないで黙っていた。しばらくしたら、その光る影は消えて無くなったわ。たぶん、タルヒナーが追い払ってくれたのよ。あそこでは彼女が一番力が強いみたいだから。でも、その亡霊が消し去られた後に、おかしな匂いがした。胸が苦しくなるみたいになる、変な優しい匂い。それを今までに嗅いだことが有るって事は分かったけどあなただって事は思い出せなかった。」
リルファーは話しながら自分の手首を見ると鎖のあった痕が微かに桃色に光っていた。彼女はその後、鎖が無理矢理引きちぎられたのを思い出して急に怒りがこみ上げてきた。
「それで、あなたはもう一度やってきて私を連れだしたのね。」コーラルは私の鎖を本当に引き千切ったといえるのだろうか。亡霊が次にやってきたときには、足が鷺のように長くて、私の所に簡単に手が届いた。それで、亡霊が私のことに気が付いて、他のレザラクス達には構うこともなしに、私を見つめていた。なぜ、他のレザラクスではなくて私を生け贄に選んだのか訳が分からなかったけど、私には逃げようは無かった。
「でも、その亡霊が私の肉の鎖に触れたとき、それがあなただって分かったの、そうしたら鎖は自分から溶けて無くなっていった。あの時あの鎖はとても嫌な匂いと煙を出したわ。」
「そう。あなたが私のことを見つけてくれたから、多分私はあそこで少しだけ生きられたのよ。私が作ってみた、レザラクスの角膜の細胞を塗りつけたゴーグルはとても不出来だったから、本当にぼんやりとしか見えなかった。私はあそこにはいてはいけなかったのよ。
でも、良かった。あそこにあなたがもう少し居たら完全に思考が奪われていたはずだから。」
コーラルはため息をつくと、鏡を手にとってリルファーを覗き込ませた。そこには髪の毛を引きむしられた、裸の鳥が惨めに身を震わせているのが映っていた。
「ごめんなさいね、リルファー。私も髪の毛を切ったのなんて初めてだったから。でも、あなたに、こんな事をしなければならなかった理由を話してあげなければならないわね。」
コーラルは手鏡を机の上に伏せた。
「あなたがこれから行く所はシハレウといいます。そこはあなたにとって耐えられないぐらい嫌なものがいるかもしれないけど、あなたを送り込める所がそこしか見つからなかったの。そこではプラックス達が帰胎する準備をしている、ちょうどあなたとおなじぐらいの背格好の人たち。それはそこ以外では絶対に見ることが出来ないものよ。それは「死の子供」と呼ばれているわ。」
「死の子供・・。なぜ、私は死の子供の所に行くの?」コーラルははっきり言うべきか戸惑ったが伝える他はなかった、ほんの少しを除いては。
「そこでは子供達がいるのよ。偽物のだけどね。それはあなたが髪の毛を切った姿にそっくりなのよ。彼らはプラックスなのだから、髪の毛を切っていて当然よね。彼らはもう何週間かしたら体が縮まって帰胎できる状態になる、それまでの間だけの子供、つまり死の子供なのよ。もう一つの理由はそこには私の友達がいるから。アマ・エムルスルダっていうの、私に何か伝えたいことがあったらアマに手紙を渡せば届くように頼んであるわ。
あと、これは言っておかなければならないけど、トワンスにはこのことは今は知らせるつもりはない、これはとても重要な事よ。」コーラルは辛そうな表情をして少しの間黙った。この子に本当にアンフィ・ブラスツゥラがそこに居るということを伝えなくて良いのだろうか、そのせいで彼女が森に逃げ出したかもしれないというのに。
「リルファー、あなたはもう少ししたらここを出て、馬車に乗ってシハレウに行くのよ。町までは私が一緒に行くけど、その先はあなた一人しか行けないわ。その馬車には他にプラックスが大勢乗り込んで居るはずだけど気にしなくても良いから。あなたはただ、もたもたしていたら死の子供の姿になってしまった、と答えるだけで良い。分かった? リルファー。」
彼女はしばらく自分の千切れた髪の毛を拾って見ていたが、それを床に捨てて唇を開いた。
「私はそこに行って一体何をすればいいの?」そう聞こうとしたのだが、口に出るときには、その意味は変わってしまった。「私はあなたの思うようにするわ。」そう言ったのがリルファーは自分自身で信じられなかった。だが、この気違いじみた所から逃げ出したいと願っていたことは事実だった。タルヒナーの所に戻れないのなら、ここにいる理由など無かった。その後、コーラルはその物置の中に彼女を隠したまま、黒い虹の息の部屋に行き、彼女のベットの下の隠された宝物を袋の中に集めた。
その袋を手渡した後、コーラルはリルファーに注射をした。透明な注射器の中には真っ黒な苔で出来た小さな妖精が踊っていて、それはリルファーのはだけられた胸の肋骨の隙間に静かに滑り込んでいった。コーラルは注射を打ちながら言った。
「この小さな玉はあなたがシハレウに居るときに守ってくれるはずよ。あなたがレザラクスだって事が誰にもばれないようにするための物なの。黒い妖精はあなたの胸の血管の隅で棘の足を延ばして流されないように気を付けながら、あなたの中に少しずつ自分の体液を流し込んで、あなたの血の中に混ぜ込んでいくのよ。そうすればしばらくの間あなたの血はプラクッスの血と同じ物になる。」
リルファーにはそれが自分の呪われた血液が聖なる神の血に偽装されるとでも言われているように感じた。正直言ってそんな気持ちの悪い注射をされるのは断ってしまいたかったが、シハレウで自分がレザラクスであることが分かってしまったりしたら一体どうなるのだろうかと恐れ始めたので、コーラルがあなたのためなのと言っているのをただ信じようと思った。
コーラルは彼女の白くて痩せた胸の真ん中にかつて自分自身で切り裂いたのだろうと思われる傷の痕を見た。それは綺麗にピンク色に光っていた。コーラルは無意識の内にそれに触れようと手を伸ばしたが、自分の手が細かく震えているのに気が付いて、止めた。
その後、彼女たちは別々に仮の神の子宮から抜け出した。コーラルは午後の買い物に行くと言って、普通に門をくぐって道を歩いていったが、リルファーの方は物置の窓から抜け出して、藪の中を這っていった。彼女はここに来てからいつもそんなことばかりしていたから、その技術がとても役に立った。彼女はいつでも誰にも見つかりたくなかったのだから。
館からかなり離れた所で、コーラルが彼女のことを待っているのが見えた。ここからだと館のどの窓から見たって見えないはずだ。リルファーは藪の中から突然飛び出した。
コーラルはびっくりして小さく悲鳴を上げた。自分が彼女に着せた、プラックスの着るような灰色のコートが、一瞬何かの獣の様に見えたのだろう。リルファーはそれを見て嬉しそうにはしゃいだ。