レザラクス 赤い土
 十二章 骨の中の森

「骨の中の森を抜けて、十六本の骨の森に身を貫かせる。
 滴る血は透明で、地面に落ちる前に消え失せる。
 ひび割れた甲羅を、その赤い霧で濡らそうと待っていた灰色のトカゲは
 土の中に潜り込む。その目は緑色で沼に沈む骨と同じ色をしている。
 十六本の氷の牙は透明で、刺し殺す痛みを忘れるためにひび割れる。
 そこに滴る虹の滴は鋭くて、レザラクスのみを刺し貫く
 レザラクスの無意味な悲鳴を聞きたくて、
 骨の森は口の中に虹色の唾をため込む。
 ひび割れた骨の森の咽を唾はあふれ出て不愉快にも地面を汚す。
 灰色のトカゲは汚れた湿った土をなめとって、自分が間違いだったことを知って
 森に逃げ出した。」              

レザラクスの三十一番目の歌。

リルファーはもう二度と仮の神の子宮に戻らないことを決心していた。今頃コーラルは自分が付けた、ベッドのシーツに残された、自分が逃亡した理由を見つけたのかもしれない。リルファーが最初それを見たときは明るいピンク色の染みだったのだが、今はもうさび付いたような香りになり、どす黒く変わってしまっているだろう。彼女にとって救いなのはその吐き気のする匂いをもう嗅がなくて済むということだった。
あの匂い、リルファーが帰胎をもう受け入れるようになったことを示す匂いは、髪の毛の部屋の中に何百年分も排出されることもなくドロドロ溜まっているのだから、今更それに仲間入りする必要なんて無くなってしまったのは明らかだった。

 彼女は急いであそこを飛び出してきたから、また靴を履くのを忘れてきてしまった。森の中の木の枝の鋭い棘が何度も足の裏の桃色の皮膚を突き刺したが、その痛みだって今の自分には当然のように思えた。彼女はコーラルのことを裏切ってしまったのだから。コーラルは自分がいなくなって悲しむかもしれない。
そうだ、彼女が本当に悲しむことといったら私という実験台が消え失せた事によるどうしようもない落胆からだけそう感じるに決まってる。
 さて、私は一体どっちに向かって行くべきなんだろうか。リルファーは半ば夢うつつに、もはやそんなことは自分に関係ないことに思えた。それにさっきから足の裏に吸盤が生えたかのように土の中に絡み付き、もう一歩だって歩きたくないように思えてきた。

 あそこを逃げ出す前には、そこを出さえすれば素敵な自由とやらが手の中にひとりでに転がり込んできて、その鮮やかな明るさに手のひらを火傷してしまうのではないかと空想していたが、すぐにそんなものは始めから存在さえしていなかったことに彼女はすぐに気付かざるを得なかった。
だんだん森の中は薄暗くなっていく一方で、彼女はその暗闇の群を見る内に今すぐに自分が気が狂って叫びながらその中に駆け込んでいければどんなに良いだろうかと思った。もしそうすることが出来たなら最後には崖か何かから転げ落ちて頭の骨も粉々になってしまうのに。そうなってしまいさえすれば、どんなにレザラクスの怪我からの回復力が優れているとしたって、神官医だってどうすることも出来るはずは無いんだ。
リルファーはふと思いついたのだが、本当はレザラクスの回復力なんて大したものではなく、ただ途方もなく用心深かっただけなのではないか、という気がしてきた。

 「そうだ、いくら私たちだって回復不能の傷や病気になったときは普通の動物と同じように死んでいたはずだ。だけど、普通の動物たちは苦しみの野に行きさえすれば良いのにレザラクスは一体そういうときはどこに行けば良いのだろう。」
 彼女は森の天井の高いところにある葉っぱの作る大胆なひび割れから差し込み始めた白い、淡い光を見て月が昇りつつあるのを感じた。

 もしかすると、あのトワンス・ロフならそれを知っているのかも知れない。それならば、彼女は森の中をうろつき回るのではなく自分はそうしたいことを素直に彼に告げさえすれば問題は全て解決したのかもしれなかった。

 地面を十分に照らすには今のやせ細った月では不十分らしく、土の上の枯れ葉や草は全く見えずに、大きな死んだ野獣の皮膚を踏みつけながら歩いているみたいだった。しかし暖かいその感触は彼女の気分を少し落ち着け始めた。いつものように。「問題を解決する、か。本当はそんなものは私自身の問題ではなく、彼らにとっての問題ではないだろうか。単なる気違いの厄介者の扱いをどうするかという。でも、コーラルは私のことを大事にしてくれたわ。私のことを仲間だとさえ言った。」
その事は今思い出してもなおくすぐったくて恥ずかしいぐらいに嬉しかったのだ。
「それならば、なぜ、私はこんな所をうろついていて、もう帰れるはずもないと決心してしまっているのだろうか?」 
 今だったら知らんぷりをしてあの館に帰り着きさえすれば、裏切ったことだってばれずに済むんじゃないだろうか。しかし、そう思うにはあの館に対する彼女の嫌悪感は余りに強すぎた。

「私はいったい何をそんなに嫌悪しているの?
 今までだって、私は体を新しくする度に、あの恐ろしい帰胎を受け入れ続けてきたのだし、また自分自身だってプラックスになって、レザラクスの暖かい中に潜り込んで眠ってきたはずなのに。」
 彼女は自分のことをなんて役立たずな中途半端な肉の機械なんだろうと思った。
 そう思ったことでまた彼女自身の心は激しく痛めつけられ、その苦痛はまた彼女に仮の神の子宮にもはやもう戻らないという勇気を与えもした。
 しかし、コーラルが彼女に言ったことは、本当はそんな肉の奴隷であるレザラクスをやめるときが来たんだということではなかっただろうか。リルファーはそんなことは気違いじみたでたらめに過ぎないと感じた。

 「だって私の体がプラックスに犯されることがたとえなくなったとしても、その代わりに死の胎児になったレザラクスに犯されなくてはいけなくなる。そして、また私自身も生き延びるために他のレザラクスを生け贄にしなくてはいけなくなるんだ。あの、恐ろしい髪の毛の部屋の中で。そんなの一つも良くなりはしないわ。返って余りにも奇妙で気味が悪い。」
そんなことの実験台に自分のことをコーラルはしようとしていた。本当に呪われているのは、コーラルとあのトワンス・ロフなんだわ。レザラクスとプラックスなんかではなく。だが、リルファーの中であの優しいコーラルが間違いなんか犯すはずなんてない。という叫びにも似た声が何度もこだました。

「今の私には何が間違いで何がそうでないかなんて分かる訳がないわ。
ただ、どこかでじっとしてうずくまりたいだけ。凍えるような枯れ葉の偽物の布団が今の私にはお似合いだ。」
 彼女は微かに見える星の光を透かして、出来るだけ大きそうな木の影を見つけると、その根元にしゃがみ込んだ。もたれてみると木の皮は尖っていて、ごつごつしていたがそれが頼もしく抱え込まれているように感じられて、リルファーは満足してつかの間の眠りについた。
 しばらくして彼女は驚いて目を覚ました。何か冷たい物が彼女のほっぺたを触ったのだ。それは凍死しそうな人の指先のような感触だった。何だろうか。多分、自分で触っただけ、それで自分が余りに凍えているから、ちょっとおかしくなっただけ。と自分に言い聞かせた。しかし、自分の手を額に持っていって触ってみると返って手は燃えるように熱かった。

 彼女は少し恐ろしくなってゆっくり目を開いた。誰かが来たのだろうか。目の前には分厚い闇のみがあった。今度は身じろぎもせずに耳に神経を集中した。それでも、ただ時々枯れ葉の木から落ちるぽそっという音が遠くでするだけのようだ。リルファーはほっとして少し身を起こした。するとまた何かが彼女の額に素早く触れた。彼女はびっくりして短く叫んだが、すぐに額を触れてみるとそれが本当は水であることに気が付いた。それから立ち上がって木の上の方を見ると、なにかぼんやりと光る不思議な物を見た。それは彼女に向かって突き出された透明な矢印だった。氷柱、たぶん氷柱だ。木に出来た恐ろしく大きな。でもリルファーはすぐに奇妙に思った。なぜこの木にだけこんなに何本もの氷柱が出来たのだろうか。それに外は寒いとはいえ凍り付く元になる雪が全く積もっていないのに。

 眠っている内に目が闇に慣れたのだろうか、さっきよりも辺りの様子がよく見えるようになっていた。リルファーのもたれかかっていた木はゴツゴツしていたが恐ろしく白くて巨大な恐竜の化石を地面に突き立てたようだった。彼女はその木の表面の美しい複雑な凹凸を眺めて指でなぞる内に、その木自体が僅かに光を放っているのに気が付いた。

「なんて、変な木なのかしら。まるでクザルイト・フレアが見つけた木みたい。」
そう思うとリルファーはその木に登りたくて仕方が無くなってしまった。彼女は何か足がかりになる物はないだろうかと木の裏側に回って調べた。するとうまい具合に樹皮の出っ張りが螺旋状に木の幹の周りを巡りながら上につながっていっているのを見つけて、嬉しくて声を出した。
その音はなぜかくぐもって低く響いた。中は多分がらんどうになっているのだろう。彼女はなぜ自分がそこに来たのかも忘れて、木の鱗にしがみつくとゆっくり登り始めた。しばらく行くと幹の螺旋状の刻み目は小さくなって消えてしまっていた。地面からはかなり高いところまで来ていた。だが、木の枝から下がる氷柱の所までは距離が有りすぎてまだよく見ることは出来なかったし、彼女はどうしてもそれに直接触れたかったのだ。

 リルファーはどうしたら良いか分からなくなってしばらく考える時間を持ちたかったが、もともと指先も凍えていたし、小さな板状の出っ張りにしがみついてもいたから、手が痛くて耐えられそうも無いことに気が付いた。
「ああ。私はなんて馬鹿だったのかしら。これだともうどこかで休まないと下に降りるのだって無理だわ。」手のひらには何本もの鋭い棘が刺さって薄暗い中でも血が滲んできているのが分かった。こんなところで木から転げ落ちて頭を割って死ぬのだろうか。初めて死ぬレザラクスにしては余りにも無様な感じがしたが、今ではそれも返って愉快に思えた。

 しかし、そうやって笑っていられるのも後、何秒かというときに、その笑い声がさっきよりも木の中に大きく響くのに彼女は気付いた。丁度、顔のある下の辺りから大きなひび割れ目が出来ているらしく、痛くて縮こまった右手を出っ張りからそっと剥がして調べるとその皮はひどく薄いように感じた。それは彼女が触れた瞬間にぼろぼろ崩れ落ちた。割れ目はすぐに大きな穴になって広がっていった。彼女はその穴の中でなら休める気がして、何とか潜り込めるだけ広げようと思った。穴の中にはうっすらと優しい青い光があったのだ。でも、その穴がやっと彼女の頭ぐらいの大きさに達したときもうしがみついていられる限界に達したのにだろう。彼女は手を滑らせて落ちかけた。
しかし、その時に自分を中に入れてくれない木に怒りの気持ちが沸いてきて一度激しく蹴り上げてやった。その衝撃で木はミシミシいって割れ、彼女はその隙間に吸い込まれていった。彼女は激しく木の棘の中に落ちて、叩きつけられて気を失った。自分はその中で死んで誰にも発見すらされないのだろうか、と思う暇も無かった。

Lezarakus
chapter 12
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 どのぐらい時間が経った後だろうか、彼女は心地の良いベットの中で目を覚ました。
少しの間彼女はいつの間に虹の息の部屋の中に連れ戻されたのだろうかと思った。それとも逃げ出したのは夢の中だったのかもしれない。なんだかお腹が空いたからコーラルを呼んでクッキーを少し貰おう。そう思ってリルファーはベットから降りようとしたが上手く立ち上がれなかった、膝が酷く痛んだのだ。その苦痛ではっきり目が覚めて彼女は木の中に閉じこめられたのだと分かった。

しかしなんて不思議な居心地の良い場所だろうか、うろの中はリルファーが十分手足を伸ばせるぐらいに広くて、中はふわふわした繊維の固まりで埋まっていてその気持ちの良さに驚いてしまった。恐ろしく高い天井に近づくにつれて樹皮の透明度が増すのだろう、上の方に青い霧のようなものがうごめいていた。その霧は驚くほど虹の息の部屋に漂っていたものと似ていたから彼女はそこに戻ったと勘違いしたのだ。でもずいぶん違うわ。虹の息の部屋では霧は重苦しくて捕らわれた悪霊みたいだったけれど、この木の部屋の中にある霧はきっと居たくてそこに漂っているのよ。だからあんなに気持ちが良さそう。リルファーは自分がこんな中で死というものに出会えるのなら。悪くないと思えた。

「だって、私だってあの霧の中に仲間入りすれば良いだけだもの。
それにこの中とても良い香りがする。」そう思う内、彼女はまた深い眠りに落ちた。
 しばらくして、また目を覚ますと今度は激しいのどの渇きを感じた。
多分いつの間にか夜が明けてしまったのだろう、天井付近の光は今活動のピークに達したと見えて明るく激しく動き出した。彼女はあそこまで何とか登っていってあの霧を飲んでみたいような気がした。それに、そこから出れば、氷柱の所にも行けるかもしれない。

でも、一体どうすれば良いんだろうか。
 リルファーは痛んだ膝をさすりながら白い繊維の中にあぐらをかいて天井を見上げた。見たところ、木の内側は外の樹皮よりもすべすべしていて足がかりになりそうな物は何一つ無かった。有るのは小さな黒い斑点が無数にあるだけで、手近な所にあるそれの一つに手を伸ばしてみたが、ほんの小さないぼが沢山ある事が分かっただけだった。

 彼女はあれこれ考えを巡らしていたが、気持ちの良い青い聖堂のなかにいるからか閉じこめられているというのに、一向に逼迫した気持ちにはならなかった。もしその壁を蹴り破れば外に出られるかもしれなかったが、別に彼女には外に出る理由が木に生えた氷柱を間近に見るということ以外なかったから、焦る必要はなかったのだ。

 ぼんやりと天井の霧やその光が映り込む斑点だらけの美しい壁を眺める内に、だんだん木の中の温度が上がっていくのを感じた。それはすぐに熱いくらいになった。
 彼女はもう一度ぐらいたっぷり水を飲んでから最後の旅に出れば良かったと深刻に後悔し始めたとき、奇妙な現象を見た。木が彼女と同じように汗をかき始めたのだ。しかも、表皮の方ではなく内臓の中に。それは木の部屋の中の天辺に近いところにある小さな黒い斑点のいぼから流れ出しているようだった。たらたらと薄桃色の幾筋かが壁を伝わって彼女の近くにまで流れ落ちてきた。

彼女は指を伸ばしてそれをすくい取ると思いのほか粘つくことに驚きながら、全くためらいもせずそれを口に運んだ。木の汗はほとんど味はしなかったがほんの僅かに甘い香りがした。それは彼女が今まで眠っていた木の繊維のベッドと同じ香りだった。彼女は喜んで何度も指ですくって舐めていると、その事に木自身も気を良くしたのか、もっと汗を流し始めた。彼女は今度は両手で受け止めてそれを何回も飲み干した。不思議とのどの渇きも空腹も癒される感じがしたのだ。

 しかし、今度は恐ろしいことに木の汗の出に歯止めが利かなくなってしまったらしく、ぼとぼとと彼女の足下の周りに固まりになって落ち始めた。
 リルファーは試しに「もう有り難う、お腹がいっぱいになったわ。」と上の方の霧に向かって手をすぼめて口に当てて叫んでみたが、もちろんそんなことに効果はなかった。
 ますます、彼女の居る方に向かって汗を垂れ流すようになっていった。最後には汗は彼女の膝よりも高いぐらいになってきた。このままでは樹液の中に溺れてしまうかもしれない。

 彼女はこの中で死ぬのは嫌では無かったがそんなふうにねとねとしたなま暖かいものに溺れて死ぬのはなんとしても避けたかった。彼女は今度は無意識の内に両手を突き出すと無数に汗を吹き出す斑点のいくつかに手のひらを被せてそれをいくらかでも押さえようとした。しかし、汗は彼女の手のひらを力強く押しのけてわき出し続けた。

リルファーは自分のしようとしていたことの愚かさを少し笑って、手をそこから剥がそうとした。だが、粘性の高い汗の層から手を引き離すのはすごく大変だということにすぐに気付くとなんとか、力を込めて引っ張って自分の手を壁から取り戻した。それに足はもうずいぶんめり込んでいたから、もうしばらく居たらどうしようもなくなってしまうだろう。
 呆然として天井の方を眺めていると彼女はある変化に気が付いた。木の壁を這う樹液の流れは重力の方向だけではなくそれに逆らうものもあるらしいということに。

 その時彼女は面白い脱出の方法を思いついた。もしかすると木が自分の力で私を外に救い出してくれるかもしれない。上昇する流れに身を任せさえすれば良いのだ。もう考えている暇はなかった。彼女は目指す流れの方に足を引っこ抜きながら進んでいくと思い切ってその流れの中に飛びついた。結果は彼女の思ったとおりになった。彼女はカタツムリのように粘液の中を手足を使わずに壁に吸い付いて登っていったのだ!
 彼女は手と足の裏の下を滑るつるつるした壁の感触をくすぐったく感じながら、元にいた寝床の方を振り返った。もう相当な高さだ。十メートルは登っただろう。彼女はそんな体験したこともない不安定な感覚に身をすくめながら、粘液の流れと共に登る以外に仕方がなかった。しかし、登った後は一体どうなるのだろうか、上手くどこかに避難できないとまた下降する流れに乗ってしまう。今度下に行ったとしたら、その時には木の汗の層は彼女を窒息させるのに十分なぐらいの厚さになっているのに違いがなかった。

 そう考える内、壁が透明度を増して来るにつれて、外の景色が見え始めた。それはおかしな景色だった。粘液のピンク色に染まってしかもその流れの屈折性にあわせてクニャクニャ永遠にうごめき続ける外の木の幹や葉が、また空や雲が透けて見えたのだから。
 リルファーはそれを見つめながら、ある決心をした。多分樹皮の透明度がもっとも高いところでは容易に皮を破って外に出られるだろう。でも失敗したら粘液の中で顔を引き離せなくなって窒息してしまうし、また外に出られても地面に叩きつけられてしまうかもしれない。なんとかして枝の上に上手く出なければならないのだった。

 彼女は何度かタイミングを見計らって頭を突っ込もうとし、そしてその都度躊躇した。だが、もっと上手い方法を考え出す余裕などとうになくなっていた。そして、彼女は最後の空気になるかもしれないと思い切り息を吸い込むと、出来る限りの力を使って、壁に体当たりした。

 しばらくして彼女はまた外のひんやりした空気を何度も自分が吸っていることに気が付いた。思った通り、有り難いことに天辺の近くの皮は羽化したてのカニの甲羅のように柔らかく彼女をするりと吐き出した。その後何メートルか転げ落ちはしたのだろうが、まだ体にまとわりついた粘液の助けで細い枝に体が引っかかってくれたのだろう。
彼女は自分のことを初めてとてもついてると思った。実際の所、自分で木の中に転げ落ちて出て来ただけなのだが、そんなことは彼女にはどうでも良かった。ただ、自分の目の前に連なる巨大で透明な氷柱を眺めるのに夢中だったからだ。

 氷柱がぶら下がっている木の枝は、リルファーの腕の太さぐらいしかなかったのだが、氷柱は下に行くにしたがって膨らんでいって、また先の方に近づいていくと鋭く牙のように尖っていた。考えてみれば、その何本もの氷柱を一本の木の枝が支えているのだが、それほどその木は丈夫そうでもなかったし、また、今は氷柱が出来るほど寒くはなかったのだから、その透明で何よりも冷たそうな尖った柱はやっぱり氷で出来てるんじゃないんだろうな、とリルファーは思った。では、いったい何がその偽の氷柱を固まらせて居るんだろうか?

 リルファーは自分でも気付かない内に、その偽の氷の方に手を伸ばしていた。それで、自分がどんなに不安定な格好で枝にくっついているのかを思い知った。まだ背中に残っている粘液のねばねばの力だけでしがみついていたのだ。空が大きくぐらぐら揺れるのを見て、それに驚いたリルファーは何とかして姿勢を起こすと枝にまたがって、すこしずつ柱の先に近づいていった。

「そうだわ。あの氷柱のある意味がやっと分かった。あれは氷柱がぶら下がって居るんじゃなくて木自身なんだ。だから、まだ、私の体の周りでべとついてる木の体液と同じ香りがしているんだ。優しくて甘い香り。
 だから、あれは柱なんかじゃなくて、木の中身がむき出しになってるだけなんだ。皮があの部分だけはげ落ちてしまって。あれはこの木の骨なんだ。」
 リルファーは嬉しそうに呟くと、やっと自分のすぐ近くに近づいてきた、16本の木の骨の内の一本に痣だらけの手を差し出した。彼女は手のひらが鋭い先に触れた瞬間、自分が今までの間に何度もそうやってきたのを思い出した。それは恐ろしく遠い過去だったのかもしれない。自分が自分ではないレザラクスだったときにそうしたのだ。

 そして、手のひらに出来た裂け目に赤い血のヒトデを見たとき、それが自分がここにやって来た理由を思い出させた。そうだ、私はもうこんな事はやめようと思ってここに来たんだ。リルファーはかすれた声で呟くと目の前の世界は涙でにじんだのかぼやけていた。それで、彼女は自分の手からしたたり落ちて地面の方に消えていった血の滴と同じ道筋をたどって自分の体を地面に向けて静かに落とした。

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