十一章 二節
その後何日かしても、リルファーは元のようにコーラルに話しかけてはくれなかった。とりあえず、もう二度と彼女に関してルゼスには何も頼まないということをトワンスに約束させたのだが、その事をリルファーに伝えても何の反応も起こしていないようだった。黒い虹の息の部屋の戸は前と同じように鍵は掛けられていなかったのだが、彼女がまた、外に遊びに出た様子は無いようだった。
コーラルには一体どのように対処すれば一番良いのか分からなくなってしまった。トワンスは、君は何もするな、奴は放っておけばそれでうまくいくはずだ。と言っていたが、本当にそうなのだろうか。彼は時折、予言者めいたことを言ったりしていたが、事実は大体彼の言うとおりに確かになってはいた。しかし、コーラルには決まったように物事が運んでいくのが逆に異常に感じ始めていた。彼女は単に自分だけがリルファーが帰胎を受け入れるまでの間の世話を全てしなくてはいけなくなったことに疲れ果ててしまっただけなのかもしれなかったのだが。
そんな時コーラルはあることを決めた。それはただ、かつてトワンスが自分に対してしたことと同じようなことだった。だが、そうすることが彼女にとっても良い影響を及ぼすような気がしたのだ。というよりも、コーラルは自分とリルファーはどこか似ているから自分と同じように感じると思い込んでしまっていたというのが真実だったのだろう。
「でも、リルファーがそうすることを、受け入れてくれれば良いんだけど。」
コーラルは彼女の部屋を戸の前に立つと、いつもは感じない不安を強く覚えた。
しかし、右手を勢い良く持ち上げてノックするとそれはすぐにどこかに行ってしまった。
「リルファー。私よ、コーラル。今入っても良いわよね?」
しばらく待っていたが、やはり返事はなかった。遠くで鳴る、風で木が軋む音がかすかに聞こえた。外はもう闇に包まれている。コーラルは一つ息を短く吐くとひんやりしたドアのノブを強く握りしめてひねった。
しかし、その中ではいつも通りの気違いのための雑用が待ちかまえていた。床に散らばったべたべたした何かをほうきでかき集めたり垢だらけのシーツを取り替えたりといったような。コーラルは一度ならず彼女を裸にして、湯で拭こうとした。彼女は、虹の息の部屋から離れたところにあるシャワー室にまで行こうとしなかったのだ。そして彼女は体を濡らした布で拭くことさえ、なかなか許してはくれなかった。毎回、湯を入れた洗面器を部屋に残したままにして部屋を出るのだが、それを使ってくれたのはほんの一度か二度だった。いつも、コーラルが横のかごに入れたままきちんと畳まれたままの形でタオルがあるのが普通だった。
コーラルは彼女の便器の代わりの部屋の隅に置かれた水色の壺の中のごく控えめの物を始末しながら考えていた。トワンスはそう言えば、なぜ彼女にプラックス達の使っているトイレを利用させずに始めからこの壺を与えたのだろう。確かに髪の毛の部屋に入れられた、レザラクス達は部屋の中に直接するのが一番良いとされていたが、最近は小さな壺が与えられるようになっていた。彼女にはトワンスの中の思考が面白く思えた。彼は壺の中にしても良いと決められていたから、彼女に壺を与え、また、シャワーに付いてはいっさい取り決めが存在していなかったから、彼に柔軟性が生まれたのだ。彼には人が実際に必要とする順番なんてどうでも良いのだろう。「でも、どう考えてもリルファーの栄養状態は余り良いとは言えないわね。このことを何とかしなくては。」
コーラルは壺の中に残された余り匂いさえしない粘液状の物をバケツの中の水で二、三度濯いだ。彼女はまた、ストラド・スートニックスを呼ぶことを考えたが、リルファーが彼に会って回復していくようには思えなかった。あの殴られたみかんみたいなほっぺたを見せられたら誰だって、気が狂ってしまうに違いがない。でも、こんな状態が続くようではそうも言っていられなくなる。実際、何度もトワンスは彼に要請を出しているのではないだろうか。それなのにこの週に入ってからなぜか彼の姿を見かけなくなったのは不思議だ。多分、最悪の結果が自分の責任になるのを避けようとする勘が働きだしたに違いがない。とりあえず、クスベーガルに言ってまた栄養剤を注射して貰うしか仕方がないわ。
コーラルは何度も水で手を洗ってから清潔なタオルに手をぎゅっと押しつけた。
それから、シーツを取り替えている間、リルファーを座らせていたイスに近づくと、彼女の白いパジャマの袖をめくって、膿で黄色くなった包帯を取り替えようとそれを静かにほどいた。
「よかった。だいぶ良くなったみたいね。でも、必要になったらいつでも私がまた巻いてあげるから」
リルファーはそれを無視して何かを見ていた。部屋の中に舞う埃が虫か何かに見えたのかもしれない。
「私も昔はあなたみたいに良く噛みついていたわ。私の場合は自分じゃなくて他の人だったけど。その時、私は目が見えなかったのよ。怖くて仕方がなかったの。だから、誰にでも噛みついてたのよ。まるで、臆病な怪我した子犬みたいに。」
「どんな子犬だった? コーラルは。やっぱり今みたいに真っ黒な目をしていたのかしら。」向こうを向いたままリルファーは聞き取れないほどのかすれた声で呟いた。コーラルは本当は立ち上がって叫びたいほど嬉しかったのだが、余り気にしていないほどの静かな調子で話を続けた。
「そうね、どんなだったかしら、多分他の人が気にも止めないような変な匂いを気に入ってその匂いがどこから出てきてるのか、夢中で嗅いで歩いていって、気が付いたときにはすぐに迷子になっちゃってるとかいう、そんな子犬。」
「なら、今も変わってないのね。」
「いいえ、そんなことはないわよ。今だったら、どんなにおかしな所まで歩いていって迷ってしまっても、自分の力だけで、元の場所に戻ってくることが出来る。それがもし本当にそこに戻りたかったらの話だけどね。昔みたいに誰かに鎖に繋がれて、引きずられて小屋にぶち込まれるのだけはごめんだわ。」
「ふふ。私だってそうよ。」リルファーはこちらを見て笑っていた。
コーラルはその様子を見て、考えていたことを実行に移そうか一瞬迷ったが、すぐに気持ちを決めた。勢い良くなりすぎないように気を付けながら口を開いた。
「ねえ、リルファーほんの少しだけ外を散歩してみない? 今日は外は寒すぎないし、もしかするとクリンプクスがいるかもしれない。」
「クリンプクスっていったい何?」
「夜行性の小さなネズミの一種よ。岩の影に住んでいるの。黒くて小さな火の玉という意味だけど悪いことは何もしないわ。彼らは一生に一度しか鳴かないとされている。つまり、他の動物に捕まって殺されるときだけに鳴くの。」
「本当にそんなものがこの近くに住んでいるの。私、この森には冬には何も居ないのかと思っていた。私、その黒い火の玉を見てみたい。」
「そう、分かった。見に行きましょう。でも、私の替えの上着を貸してあげるわ。そうしないといくらそんなに寒くはないとはいえ凍えてしまうかもしれないから。取って来るから、ちょっと待っててくれる。」
リルファーを部屋に残して薄暗い廊下に出たコーラルは自分の口からそんなネズミを見に行きましょう。とかいう言葉が出たことにとても驚いていた。だけど、またそれも悪くはないかと思えた。そう言えば、彼女は前はよく外に行っていたみたいだったが、その時はいつも真冬の中をパジャマ一枚で行っていたのだ。彼女は自分の持っている縮こまってしまったセーターを役立てるときがついに来たことを素直に喜んだ。トワンスはそんな余計な事をするなというかもしれないが、そんなことにかまうつもりは一向になかった。
「クリンプクスが今日はいてくれるといいけど。」
実際彼女がそれを見たのはここに来てから二回ぐらいしかなかった。しかし、岩場に撒いた木の実や草の種はいつも殻がこじ開けられていたし、黒くて柔らかい体毛が毛繕いをしたときに落ちたものが小さな固まりになっているのを何度も拾ったりもしたことがある。「そうだ。あの毛の玉を持っていこう。もしクリンプクスがまだ目覚めていなかったとしても、それをリルファーに見せてあげたらとても喜ぶに違いないわ。」
だが、問題はその毛玉を入れたジャム瓶がいったいどこにしまい込まれたのか全く覚えていないことだった。
コーラルとリルファーは真夜中近くになってから、たっぷり着込んで外に出た。久しぶりに外に出る彼女はとても不安げな表情を見せていたが、コーラルが赤いガラスを入れたカンテラを灯すと、赤く光る風景に驚いたのだろうか。急に声高に話し始めた。
「そんなに赤く光っていたら、黒い火の玉のネズミだって、真っ赤にしか見えないじゃない。周りの風景みんながずっと燃やされ続けているみたい。私が居た、レザラクスの馬鹿げた塔と一緒よ。ネズミはきっと嫌になって逃げ出してしまうわ。」
二人は柔らかく湿った落ち葉を靴の下に感じながら歩いた。コーラルはリルファーのためにどこからか古びた靴を探し出してきたので、もう土の上を裸足で歩く必要はなかった。
雨に濡れた腐った葉は真っ暗な中で裸足で歩いたりしたら気持ち悪くて仕方がなかっただろうけれど、その感触を直に味わえなくなって、リルファーは少し残念に感じた。
「さあ、もう少ししたら、岩の集まっているところに着くから、その時は黙っていた方がいいわ。そうしないとクリンプクスは耳が敏感だから、怖がって出てきてくれないかもしれない。」静かにそう言うコーラルの横顔は彼女の髪の毛の壁に阻まれて、リルファーからはよく見えなかった。
しばらく行くとごつごつした大きな黒い影が林の中に見えた。
その巨大なゆらめく化け物のような姿はリルファーを怯えさせた。コーラルはそれを指さすとそっと言った。「あそこにクリンプクスが住んでるのよ。」
それを聞いてリルファーはそんなどうでも良い。ネズミを見に来たこと自体が間違いだったと後悔して、やっぱり寒くなってきたから帰ろうとでも言おうかとためらった。彼女がさっき無理矢理自分に着せた、汚らしいセーターが暑くて首筋に汗が流れた。
確かにどうして、コーラルは自分にそんなことを言ったのだろうか。自分がそんなものを喜んで見て元気になるとでも思い込んでいるのだろうか?
「全く無邪気なもんだわ。」そうコーラルに吐き捨ててやりたがったが、そんなことをもし言ったら、この訳の分からない暗い森の中で一人で放っておかれてしまうかもしれない。と思うと怖くてそんなことが口から抜け出すことなど有りそうもなかった。リルファーは唇を何度もかみしめた。そうすることによって、臆病な震えを何とか隠そうとしていた。
そうしている内にもう岩の固まりの前に着いてしまった。近づいてみるとそれは岩というよりもごつごつした人の頭ぐらいの石が山のように固まっているといった方が正しいようだった。石の表面にはさっき上がったばかりの雨が染み込んでいて、コーラルの持つカンテラによってぬめぬめと光っていた。
「少しここで待っていて。」
コーラルはリルファーの耳元にかがんで、もやがかった息を吐きながら言うと、一人で岩の固まりの方に近づいていった。今にも岩の怪物が寝返りを打って、湿った腹の下にコーラルを押しつぶしてしまうのではないか、もしそうなら、せめて、我慢が出来る限界まで叫ばなくてはいけない、そうリルファーは決心すると、それに備えて深く息を吸い込んだ。
しかし、いつの間にかコーラルは彼女の隣にいて、地面の手頃な岩の上に座っているようだった。暗くてよく見えない。コーラルはなぜか自分たちの持ってきた一つしかないカンテラを十メートルほど離れた岩の上に灯を入れたまま置いてきてしまった。
「リルファー聞こえているの? あなたも座ってじっとしてなさい。そうしないと彼らが安心して出て来れないじゃない。彼らは暗闇だって見ることが出来るから、私たちが何をしようとしているのか今、岩の影の隙間から窺ってるのに違いない。」
それを聞くとなぜかリルファーは大声を出しながら岩の方に向かって全速力で駆けだして、小さなネズミたちを踏みつぶしてみたいという強い衝動を感じた。だけど、それも奴らの姿をゆっくり眺めてやってから、安心させてから裏切る方が気持ちが良いのではないかと思えもしたので、リルファーも自分のおかしさがコーラルにばれないように気を付けながらゆっくりしゃがみ込んだ。
コーラルは自分と同じぐらいの固まりにリルファーがなったのを感じ取ったので少し安心して、ため息をそっとついた。今度は明るさがまるでないので、息の霧は見えなかった。
ずいぶん長い間そうしていたのか忘れてしまうほどしゃがみ込んでいたリルファーは自分の膝の間に頭を埋め込んで、髪の毛のカーテンを作って周りから逃れようとしていた。
しかし、その時とても小さなクスクス自分を笑うような音を微かに聞いた。奴らが来たのだろうか、リルファーはやっと、コーラルが自分をここに連れてきた理由が分かった気がした。自分が髪の毛の部屋に入れられて、自分に入ろうとするおぞましい化け物がやってこようとするときもこれと同じ感じに違いがない。だから、コーラルはこんなチンケなネズミを自分に見せることで予行演習させようとしているんだ。そう思った瞬間に彼女の中でコーラルに対して抱いてきた信頼と呼べそうなものが逆にどんなに自分を傷つけようとしているのかを感じ取った。その目眩のするような感じは彼女が初めて人にはっきり感じた憎しみなんだ。とリルファーはかすかに思った。
しかし、リルファーは自分の作った髪の毛のカーテンの向こう側に小さくてふわふわしたものが素早く動くのを見た。「あれがコーラルの言ってた、クリンプクスか。私はどうしてあんなものを踏みつぶしたいと思っていたのだろうか。」
何匹も姿を表した現したクリンプクスは互いに蛇のようにシュッシュッと息を吹きかけ合いながら、素早く遊び回っていたが、何周かしてその内の一匹がその遊びに飽きてしまったのかどこかに姿を消した。遠くに置いたカンテラの照らす範囲はごく限られていたので、すぐに彼らの全部が闇の中に消えてしまった。だが、リルファーは彼らが自分に逆に静かに忍び寄ってきているのを感じた。小さな無限の数のさわさわ言う足音。それを考え始めると彼女は怖くて仕方がなくなってしまった。あんなにちいさなネズミなのになぜ私の方に来るんだろう。あいつらは私の指先や足の爪に酷く噛みつくかもしれない。多分あいつらは私たちの肉のかけらをかじり取って食べたいと思っているんだ。多分あいつらは酷い毒を持っているんだ。そんなふうになる前に逃げなくちゃ。大声を出せばきっとあいつらだって一瞬だけだったらびっくりするはず。その内にコーラルの手を引っ張って駆け出せば良い。だけど、その前にあのカンテラのところまで行ってそれを取り戻さなくてはいけない。あんなふうにコーラルが遠くに置くもんだから、逃げ出せるチャンスが一つ減ってしまった。その事をリルファーはいまいましく思って髪を払ってコーラルの方を振り向いた。そうすると目が闇の中に慣れて来て、それに明るい月が雲から顔を出したからだろう、辺りの様子がうっすら見えかかってきた。
少しリルファーから離れたところにいるコーラルはなぜか地面に向かって手を伸ばしてうずくまっていた。もう彼らに咬まれてしまったのだろうか。彼女の手のひらには赤い血の染みがたまっているのが今度ははっきり見えた。リルファーはびっくりして彼女に駆け寄ろうと勢い良く立ち上がった。すると、その瞬間その血が生きているように飛び跳ねて辺りを素早く駆けて岩の隙間に逃げ込んでしまった。
ゆっくりとコーラルはその姿勢のままリルファーの方に顔を向けると、話し出した。
「どうしたのリルファー? 彼らが私たちの所に挨拶しに来ただけじゃない。さっきだってあなたの周りにもたくさんいたわよ。今日私の手のひらに彼がほんの一瞬だけだけど乗ったの。こんな事は初めてだわ。あなたが、急に立ち上がったから彼らはびっくりして逃げてしまったけれど。」
コーラルも立ち上がって膝の埃を払うと彼女に近づいてきた。リルファーはもっと非難されるのかと身構えたが彼女は笑っているようだ。
「さあ、今日はもう帰りましょう。リルファー、さっきのところまで行ってカンテラを取ってきてくれる?」リルファーは無言で頷くとぼんやりとした赤い光の方向にふらふら歩き始めた。彼女にはそのネズミたちが闇の中で流す血が生きて動き出したように感じた。
「だけど、そんなものの方が私よりも優しいに違いがない。少なくてもコーラルにとっては。」リルファーはとても不思議に感じた。
その帰り道にコーラルが彼女に提案したものこそ本当はリルファーにとって恐ろしいもののはずなのに、彼女は別に気に止める様子もなく「コーラルが言うのならそうするわ。」と言った。
コーラルは「その気があるのなら、あなたに帰胎する死の胎児をいっぺん見てみない?」そう、提案したのだ。コーラルは彼女をネズミを見に来ようと言ったこと自体本当はリルファーにとって罠だったんじゃないかとも思えた。
しかし、たとえそうだったとしてもそうするのがリルファーのためになるとコーラルの中で自分自身にささやく声が微かにしたので、彼女はそれを信じてみようと思った。