十一章 一節 髪の毛で描かれた地図
リルファーは泥だらけになった自分の膝をなんとか払おうとしていた。早くそれを済ませてしまわなければ、今にもコーラルが自分の部屋に現れてしまうような気がしたのだ。彼女の素手に刻まれた、自分のことを噛みついた刻印はとうの昔に消えていた。彼女はこの一週間、仮の神の子宮の周りの森を一人で散策するようになっていた。まだ、外の風は凍えるくらい寒かったが、リルファーにはとても気持ちよく思えた。その風が彼女の肌の傷を撫で消したのだろう。
彼女は髪の毛の部屋に入れられていた時に自分の靴を脱ぎ捨てて、そのままになっていたから、今、外に出るときに履く物が無かった。コーラルに言えば何とかしてくれたのだろうが、そんなことは言いたくなかったのだ。
「私、自分の履く靴がないの、コーラル。とか言ったら、もしかすると、彼女はあの気持ち悪い赤毛のクスベーガルに頼んで、私の靴を髪の毛の部屋から探し出してくるかもしれない。彼女は洗えばそんな匂いなんて落ちるわ。実際に何の匂いもしないのよ。とか言って、私の目の前に灰色になった、私の靴を突き出すのが目に見えるようだわ。そしたら、私は我慢してその汚された靴を履かなくてはいけないんだろうか。」
彼女は激しくイスから立ち上がって怒鳴った。「いいえ、そんなことになったら、私、コーラルの顔にそれを投げつけてやらなくてはいけなくなる。」
リルファーはいつも冷静で優しいコーラルの疲れた白い肌が靴をぶつけられた痛みと怒りで赤くなっていくのを想像した。彼女の怒鳴り声は黒い虹の部屋の分厚い壁と天井近くの黒い霧に守られて外には漏れなかったようだ。彼女は自分の声の反響が止むまでしばらく誰も来ないか待っていた。
「でも、私はそんなのはごめんだわ。それなら、裸足でいた方がずっとまし。泥だって払えばすぐに落ちるし。」
しかし、うつむきながら、一枚しか渡されていないタオルで裸足の指の間を何度こすっても、その湿った血のような土は肌から離れる気配を見せなかった。彼女は今日、薄暗い森の中を散歩して、ぬかるみの中に足を突っ込んでなかなか抜けなかったのを思い出した。
「でも、どうしてかあの土の中はなぜかあったかかった。周りの森の空気はさび付いた鉄みたいに重かったのに。ちょうど、このおかしな家と同じみたいに。」
リルファーは誰にも聴かれないように小さく口をすぼめて呟いた。
森にはたいして面白い物があるわけでもなかった。でも、リルファーは森の中にある小さな沼を見つけて、そこを気に入ってしまったのだ。余りに寒いから、動物だって何もいなかったけれど、凍った沼の表面にはシャーベット状の雪が積もって、沼の水の表面が凍らない所には水が繊細な青いさざ波を立てていた。彼女にはその沼のことを傷ついた大きな生き物が見つからないように体を寝そべらせている内に、体だけが溶けて毛皮だけが残った物で出来ているじゃないかという気がしたのだ。
それに、沼の岸辺に打ち上げられた、小さくて長い、赤い葉っぱ達の群を見るのもとても好きだった。すごく綺麗に寄せ集まって震えているんだけど、指で押せばすぐに形を変えてちりぢりになってしまう。
リルファーは足を拭くのを諦めて、泥が完全に乾くまでそのまま待つことにして、くしゃくしゃのベットに腰掛けていた。
ベットの上と床のそこら中に自分のいじくって抜けた髪の毛が奇妙に絡まりあっておかしな地図を描いていたがそんなことは彼女の気には一向に止まらないようだった。彼女は床にかがむとベットの隙間に手を突っ込んで自分の宝物がちゃんとまだあるのを確かめると、安心して今日の収穫をその中に加えた。
隙間に押し込む前に手を開いてみると白くて変わった形のひんやりした破片が指の間に光った。彼女はそれを何かの動物の骨の破片だろうと思った。もし、コーラルに聞けば、彼女は学校にいたときにネズミやアメーバの勉強ばっかりしていたらしいから、何の骨か分かったかもしれなかった。でも、彼女はそれを自分が見つけた沼の骨の破片であるということにしておきたかったのだ。
そうやって、ごそごそやっていると戸のすぐ向こう側に足音がした。リルファーが驚いて立ち上がる暇が無い内に、扉は激しく開いた。彼女がしゃがんだままゆっくり振り返ると、そこには見たこともない男が立っていた。男は灰色に濡れた髪の毛をぬらつかせながら、静かに歩くと皺だらけの口元の形を半月型に歪めて見せた。その口からはみ出してきた音によって、彼が笑おうとしているのだということに気付いた。
なんて、醜い笑い声なんだろうか。しわがれたひきがえるが無理に綺麗な声をだそうと努力しているみたいだった。だが、彼女は彼のその後に続いた言葉に耳を疑った。
「あはは。ここにいたのか、リルファー。私は君が帰胎されることを望んでいないということを知っているよ。でも、だからこそ、私は君を選んだんだ。君が私たちの永遠の特権であるずっと生き延びられるということからも逃れたがっているってこともね。
その様な君のことを聞いて君に好んで帰胎したいなんて思うプラックスなんて一人だっているはずはないが、私には特別な事情があって、君を選んだんだ。その事を許して欲しい。」
リルファーはさっきから、この男が一方的にわめく事なんて一つも聞きたくは無かったので、じっと目を合わさないように床を見て膝を抱いて震えていた。そして、男の靴に目をやるとそのブーツは黒く濡れていて、沢山の赤い泥はねが牙の形をしてこびり付いていた。
「そう、あなたあの黒い沼の近くを通ったのね。私はそう言えば、あなたの靴の作った窪みもさっき見たわ。こんな所に人なんて来るはずはないって思っていたから、忘れてしまっていたけれど。」
その男、アンフィはそう初めて女の子が自分に向かって呟いたのを聞いて、話し続けようとした言葉を一端飲み込んだ。そうだ、私はあの時沼の近くの木に隠れて、この子を見ていたんだ。でも、それが、自分が見た、白い草の部屋の赤土の本になったレザラクスにとても似ていたから幻かと思ったんだ。だか、その事をこの子に喋ってはいけない。そうすれば、恐ろしく警戒してしまうに決まってる。自分の帰胎を受け入れようとしなくなるのは確実になってしまう。私はこの子以外のレザラクスには帰胎する事なんて出来はしないのに、そうなれば、恐れていた一番ありたくないものに私もこの子もなってしまうんじゃないだろうか。
「ねえ、あなた。何なの? 訳の分からないことをぶっ続けで喋ったり、そうかと思うと気を失ったみたいにぼおっとして、どこか頭がおかしいんじゃないの?」
そう、冷静に女の子が話す声が耳の中に届くまで自分が黙っていたことにアンフィは驚いた。
「そうだな。君の言う通りなのかもしれない。私はどこかおかしいんだよ。
だからこそ、私は君を必要としているんだ。分かるかい? 本当は君だって私しか必要としていないことを。」
彼女はそれを聞いて彼が自分に帰胎をしたがっている男だということを思い出した。わざと忘れようとしていたのかもしれなかったが。その男が自分の腹の中の肉の器官の断片を切実にほしがっている様子を見て、リルファーは吐きそうなぐらい気分が悪くなった。
「出ていってよ。あなたには何も渡さないし、あなたを受け入れるのなら、死んだ方がましよ、それに私の中にいる肉の子供だってあなたを欲しがってなんかいやしないわ。あなたに飲ませるための血なんて私の中になんて一滴だってありはしないのよ。」
彼女は立ち上がると、アンフィの事を見上げて吐き捨てた。
「そうね、私の中に帰胎したいのならそれでもいいわ。でも、その時は私の中の血に呪いを掛けてあなたがその中から絶対出れないようにしてやる。」
その大男は皺だらけの顔を恐ろしいほどに歪めて、息をしてやっと言った。
「君は分かっているのか、君が言っている意味を。
だが、私は諦めないぞ。分かっているだろ。君こそが、私を必要としているということを。
君は白い草の部屋の中で私と会ったじゃないか・・」
彼はそこで言葉を切ると苦々しい表情を一瞬緩めて、リルファーに背中を向けた。
無視したいことから一瞬でも早く逃げ出そうとしているのだ。しかし、血の気の引いた顔色をもう一度リルファーの方にゆっくり向けた。
「そうだ、言い忘れていたが、私の名前はアンフィ・ブラスツゥラだ。」
「知っているわ。コーラルから、聞いたもの。」
その名前を聞いた瞬間アンフィは全身をびくっと痙攣させた。
「コーラル、コーラル・グラズセンがここにはいるのか、そうだった、そのはずだった。未だあの時のまま、レザラクスでいようとしている彼女がここには居る。」
アンフィは熱に浮かされたように呟くと、足を引きずって歩き、重い木のドアに手を掛けた。そのドアがやっと閉められた後、リルファーは自分のベットに頭を何度も激しく打ち付けてなんとか気分を落ち着けようとしていた。
「あの男、絶対気が狂ってる。ここに来るまでの間に弱って、くたばっちまえば良かったのに。」
彼女は俯せに寝てしばらくベットの枕に自分の頭を押さえつけて息が出来ないようにしていた。そしてそれが耐えられないぐらいなると、やっと少しそこから顔を離し、目だけを外に向けた。その目は息をしていなかったせいか、いつも以上に緑にくぐもって見えた。
「あの男はどうして、コーラルのことにあんなにショックを受けたんだろう。やっぱり、何かあったんだろうか。」
寝返りを打って天井を見た。
「どうして、あの男、アンフィは私と白い草の部屋であったと言っていたんだろう。」
リルファーはその事がなぜか恐ろしいことのような気がして仕方がなかった。部屋の床を見ると自分の落とした髪の毛の絡まりが男の足を引きずった形に、歪んでいるのを見て、そんな物は早く拾って捨ててしまえば良かった。そうでなければ、汚されないで済んだのに。そう思うとリルファーは自分の腕に激しく噛みついた。彼女の歯と舌の間を暖かく流れるその甘い固まりは彼女を少しの間だけ優しく慰めた、いつも通りに。
「私のことを慰めてくれるのはこんな物だけなんだろうか。」
彼女はなぜかあふれてくる涙を一人で手で拭き、舐めた。
その滲んだオブラートの向こう側に、見慣れた姿を見つけた。
「コーラル。」
だが、もう一度、腕で目を拭うとその体は消えていた。彼女は凍えたため息をつくとシーツを引き寄せて頭から被った。世界なんて今すぐ消えてしまえば良いんだ、とささやきながら。そして、彼女はその事を自分が本当に出来る気がしたのだ。それが、彼女を力づける唯一の材料になった。
「汚された髪の毛の地図は明日、粉々にして捨てればいい。」
そうつぶやくと、まだ泥だらけの足を抱え込んで彼女は眠った。天井にはまだ、しつこく黒い天使達がたむろしていた。何匹も、何匹も。