レザラクス 赤い土
八章 一節

 ようやく深夜になって自分の部屋のドアを閉めたコーラルの頭の中に、一つの物語がしつこく、こだまし始めた。それは、何の話だっただろうか。あるおかしな名前の木を見に行った若いレザラクスの話だ。ポンヘイトス・クヌズというのは木の名前だっただろうか。それとも女の子の呼び名だっただろうか。

 コーラルは死の胎児たちの部屋のつんとする消毒薬の香りを嗅ぎ続けていたからなのだろうか、頭の後ろのところがずきずき痛み始めた。いつもなら、あの香りを嗅いでいたらかえって安心するぐらいなのに不思議だった。こんな時は早く熟睡してしまわなければ、気が狂いそうになる夢を際限なく見なくてはいけないはめになってしまうのが落ちだ。コーラルはちょっとした書き物をするのを諦めて、真っ赤な頭痛薬を一錠口に含むと、唾液を使って飲み干した。その、のどの中を通過していく小さな赤い道筋は、鋭い苦さで彼女を少しだけほっとさせた。

 しかし、明かりを消して何日も前から洗濯さえしていないシーツを頭からかぶると、なぜか目の前がチカチカ光り始め、それは真夜中の道路に光るまばらなヘッドライトのスピードでゆっくり動き始めた。
今夜はあまり眠れそうにないらしかった。部屋はいつも通り夜中になると暖房設備が止められるせいで、気温が下がり始め、その冷たい空気はのどを締め付けるようだった。まるで空気そのものに意識がある感じだった。きっと生きている空気状の生命体があったとしたら、それは絶対、極寒の中でしか生き延びることが出来ないのではないかと、夢の入り口の心地よさのなかで考えていた。そして、それは、暖かい空気に周りを取り囲まれて、逃げられなくなると最後には自殺して、小さな赤い石ころになって空から地面に目がけてすごい勢いで落下していくのだ。そして、地面の真っ黒な岩にぶつかった瞬間、その石は砕けて砂になる。そのようにして、昔、極寒で、今は極端に温暖になっていった黒い大地の地方では、赤い砂漠にその表面すべてを覆い隠されて行ったのだ。
だから、黒い大地と今でも呼ばれながら、その真っ黒な巨体を数十メートル下の厚い真っ赤な砂の層の下にしまい込んでしまっているのだ。

 そこまで、考えていって、コーラルはそれは自分の空想などではなく、数年前に神官養成院で習った、人間たちの考え出した気象学の授業の中で聞いたことを、思い出したのだった。
 「そうだ、あの時トワンス・ロフが来て、私をあそこから連れ去っていったんだ。」
あの時のトワンスは一体私に何をしたんだろうか。コーラルは一人で湿った闇の中に呟いた。彼女はその時のことが未だによく思い出せずにいた、彼が彼女をここに連れてきた後、すぐにした彼の説明を除いてはだが。

 ゆっくりとしかも避けられぬ調子で苦痛感を伴いながら、彼女は過去の事を思い出していった。
 トワンス・ロフが彼女に初めて会いに来たとき、彼女は神官養成院の牢の中に閉じこめられていた時期だった。実際、牢とはいっても本当はそれはただの生徒用の個人のための小さな勉強部屋に過ぎなかったのだが、彼女はそこにいる以外に全く自由がなかったから、彼女はそこをそう呼んだのだ。

 神官養成院はこの国のどの建物と同じように黒く重苦しい石の固まりで出来た、無様な塔だった。だが、五階より上の階は、石の表面を薄く、赤く透けたガラスで覆い隠されていた。それは赤土の本にそうすべきと書かれていたからでもあったが、実際的にも、赤く反射する物で辺りを覆い尽くす事で若いレザラクスたちの精神的な安定を築けるとされていた。一般にレザラクスは高所に行くほど不安になっていくからで、それは外の風景が窓から見えていようがいまいが関係なかったのだ。
 そして、その耐えられる限度が五階程度であることが過去に統計学的に裏付けられたので、高くなればなるほど濃く赤く着色された硝子が壁や床一面にはめ込まれた。
レザラクスが高度に圧迫を感じる理由の一つが彼女たちは高いところに登るほど、世界が緑色に変色して見えるという特質を持つからだとされていたが、本当のことを言うとそれはそこまで破滅的な事ではなかったのだから、無視されても良かったはずだった。
確かに高い崖か何かに、凄い勢いで駆け上がっていったとしても、別に取り立てて意識するほどは世界が緑色になるという事なんて無かったのである。しかし、その取り決めは厳粛に守られ続け、割れたガラスがあるとプラックスの番人たちによって逐一取り替えられた。

 そのために、その彼女が入れられている勉強部屋は十六階であったから、本来は赤いガラスで覆われているはずだった。しかし、彼女はこれまでにも、皿やイスを投げつけたり乱暴に机に石版を叩きつけたりしたときに、貴重なガラスが何枚も割れたために、そのつど、プラックスの番人に怒鳴りつけられてきた。だからプラックスの教師たちは始めはそう怒らずに、そそっかしいものだと、笑っていたのだが、こう何枚も割るとは彼女がその自分を守っているはずのガラスを憎んでいるのに違いないと結論付けるしかなかったのだ。

 それで、その彼女が入れられている部屋の中のガラスは天井を除いて全部取り除いてあった。本当は彼女はそんな物を憎んでなどいたりはしなかったのだが、彼女が気分が悪かったり、何か頭に来ることがあった後など、それは自分が知らないうちに砕け散ってしまっているのが、常だった。
要するにそんな脆い、守ってくれる世界は彼女には必要がないということだった。しかし、彼女にとって一番気にくわないのは、なぜ彼女を昼の間、勉強部屋に閉じこめておこうということになったとき、わざわざ、ガラスを取り除いてまで五階以上にしかない個人用の勉強部屋に入れなければならないとしたのかということだった。

 彼女は一人でその狭苦しい部屋の中に入れられると、ほとんど机の上の教科書を広げることもせずに、床の上に仰向けで寝転がって、天井にだけ取り残された赤いガラスを見つめた。そこにはぼんやり、下にあるあらゆる物が映っていて、もちろん自分の姿も見えていた。切ることの許されていない黒くて長い髪が、気味悪く放射状にのたくっていてその真ん中にある、白い影が自分の顔であるはずだ。とても黒い絡まった蜘蛛の巣。別に彼女はそれを醜いとは思わなかったが、その姿に吐き気がするくらい憎しみを覚えた。

 「そうか、だから私は罪もないガラスたちを割っていったんだ。私は自分の映る姿を叩き割りたいだけだったんだ。」
 コーラルは一人でそのことに気づいて、まだ満足げに寝転がってうっとりしていると、手荒にドアがノックされる音がひびいた。窓の外を見てみると太陽が傾いたらしく部屋の中に直接日が射し込まなくなっていた。つまりここを出される時が来たのだ。

 コーラルは返事もしないでまだ床に寝そべっていると、荒っぽい息をつきながら灰色になって皺だらけの神官衣を着たまだ若いプラックスが、ドアを乱暴に開けた。男の肌は奇妙にオレンジ色に日焼けして光っていた。本当は、あいつの方が力加減を知らないはずなんだから、どうしてガラスを割ったりしないんだろうか。そう、もごもごつぶやき続けていたが、それは彼の怒鳴り声で途絶えた。

「なんだこの女は、こんな汚い所でごろごろしやがって、はやく立ちやがれ!そんなに汚れたかったら、下にある便所の中でしたら良いじゃないか。お前は俺みたいに頭が悪いらしいが、ここが神聖な場所であることぐらいは分かるだろ。わかったらな、さ、早く立てよ。」

 最後にこの男が懇願するような静かな口調になったのには、訳があった。ちょうど開け放った戸の中をのぞき込むようにして、教育神官長のゲシツルク・ムルシュクが、その脂ぎった禿頭を見せていたからだ。
コーラルはそのプラックスの番人の勘がいいことに感心して、口笛を吹きながらすばやく立ち上がった。そして、番人に手を取られて、部屋を出たときには、ムルシュクはどこかに行ってしまった後だった。怪物の見学は一瞬だけでもう沢山というわけだ。彼女はそんな清潔を好む幽霊みたいな奴のことを思うと、嫌悪感を目眩がするくらい強く感じた。

 廊下は、恐ろしく赤い光に満ちていて、夏の太陽の直射日光に顔をかざして、目を堅くつぶった時の色と同じだった。

 そんな生活を一月ぐらい続けた後だろうか、彼女はその部屋の天井のガラスを割ることを決心した。机の上に立ち上がって天井を見上げると、初めてそのガラスの表面にきれいな小さなあぶくが閉じこめられていることに気付いた。
 その赤いキャンディーの塗りたくられた光の中に、浮かぶあぶくは一ミリぐらいで、とても静かに輝いていて、その中の空気が外に出ることを切望しているように思えて仕方がなかった。
今、出してあげるわね、そうつぶやきながら彼女はそのあぶくの中の空気が砕け散るガラスの中でどのように、外の恐ろしいような量の空気の固まりに出会い、解け合うのだろうか。また、その時にどんなふうに恥じらいを覚えるのだろうか、と、考えるとそれは身を捩りたくなるくらい、素敵な事に思えたのだ。だから、彼女は机の上から床に降りると、投げつけるために持ち上げようと、木の真っ黒なイスに手を伸ばした。

 すると、それは腹立たしいことに床にへばりついて、どんなに力を入れても一ミリも持ち上げることが出来なかった。コーラルはいらついて、それを激しく揺さぶった。怒りに叫び声をあげたい気分だった。
 しばらくして、そんなにイスが重いはずはないから、コーラルは不思議に思って、押さえがたくわき上がってくる怒りにこれ以上溺れてしまわないように気をつけながら、わざとそっと床とイスの接しているところに目を落とした。やはり、頑丈な金具がイスの影の見えないところにがっしりとつけられていた。

 その銀色に鈍く光る金具を見つめていると、神官長に言われて、彼女の番人であるあの、醜いプラックスがその太って役立たない体を折り曲げ、床に這いつくばりながら、自分の邪魔な腹の脂肪と上司にぶつぶつ文句を言いつつ、それを取り付けていることを想像すると、忍び笑いさえ浮かんできた。神官長はとっくに彼女が天井のガラスを割ろうとするだろうということに気付いていたのだ。

 それならなぜ、始めから天井のガラスも取り除いておかなかったのだろう、もしかすると、本当は赤いガラスは彼女たちを守るための物なのだから、その全てを取り除いてしまっては、コーラルがかわいそうだとでも思ったのだろうか、それとも、それを取り除いてしまったら、彼女が正常な精神を取り戻す機会が永遠になくなってしまうとでも思ったのだろうか、どちらにしろ、そうだとしたらガラスを割る以外に仕方がないことに彼女は気付いた。すると、今度は逆に自分がとても冷静な気分になっているのを感じ始めた。

 今、思うと怒りの感情は背の立たない水の中で溺れてしまうことにそっくりだということに気がついた。冷静になれば、簡単に水の表面に浮くことだって出来るのに、感情に強ばった体がそうすることを忘れさせてしまうのだ。
一度安心してしまえば、水の中に居ることは大変気持ちが良いことだ。彼女はゆっくり泳ぐような気分で、部屋中の全ての調度の足に取り付けられた、金具のどっしりしたきらめきを眺めて回った。全てとはいっても机とイスが一組置かれているだけだったのだが。その机とイスの表面には赤いガラスを止め付けていた時の金具の跡が黒く小さな窪みになって点々と残っていた。そして、その小さな穴たちを静かに一つずつ撫でながら、コーラルは小さく歌いながら歩いて行った。

 それから、自分のおかしなぐらいに膨らみあがったポケットの中に手を突っ込むと、それにぴったり合ったねじ回しがないか調べ始めた。しばらく手の感触をたよりにまさぐり続けると、ひんやりした金属の短い棒が紙切れの隠れたところから顔を出した。
「やっとあった。」ほっとして短くつぶやくと、机の影にしゃがみ込んで、イスを床から取り外そうと、そのねじ回しを金具にあてがった。しかし、そのねじはいくらひねっても外れることはなかった。薄暗くて真っ黒い影の中で床にぴったりくっつくぐらいに頭を下げると、ねじの頭の形を調べた。案の定、そのねじは普通のねじとは違っていて、彼女の持っている一般的な物では絶対に取り外すことの出来ない種類の物だった。つまり盗難防止用のねじだったのだ。

 彼女はまた、軽い苛立ちを感じ始めたが、すぐに気を取り直した。そんな、くだらないいじけた真似をしたって彼女が天井のガラスを割ることを防ぐ事なんて出来はしないということを自分に言い聞かせた。そして、彼女はその日は大人しく教科書を開いて勉強を始めたのだった。


 そして、また一週間ぐらい経った後、彼女はその部屋に入ってしばらくすると、まだ午前中だというのに弁当に持たされたサンドイッチの包みを丁寧にほどき始めた。もちろん彼女はお腹なんて空いていなかったし、その上昨日の晩に食堂で出された脂ぎったサラミのスープとデザートの甘ったるい揚げ菓子が胃の中にまだしつこくぎとついていたから、その日の昼食だって食べる気にならなかったということも、今日となっては逆に好都合とさえいえた。

 彼女はそのいつもよりかなり厳重にくるまれた覆いの最後の一枚をはがすと、奇妙に膨れ上がった固まりが姿を見せた。それが、彼女の作り直した特製のサンドイッチというわけだ。いくら、ここの食堂のコックの趣味がおかしくても、そんな異常なサンドイッチを出すはずはない。けれど、今の彼女はそれしか欲しくなかったのだ。

 彼女はそのかちこちに固まってしまった表面をウサギを撫でるようにしてそっと触ると、脇の合わせ目に手を差し込んで皮を強引に引き剥がした。中には握り拳ぐらいの赤黒い石ころが一つだけバターにまみれてうずくまっていた。その石の色は、まるで着替え中に突然更衣室のカーテンを引き開けられた、馬鹿で醜い女の肉みたいだった。コーラルは、いとおしそうにその石をレタスの葉の屑から拾い上げると、ティッシュでやさしく拭い始めた。そうしなければ、きつく握りしめたときに石が滑って手から逃げてしまうかもしれなかった。拭きながら彼女はその石を真夜中に見つけた時の事を思い出していた。

 一緒にこの塔の一階の寝室で寝ている、他の女の子たちの全員がいつもの下らない長たらしいひそひそ話をやめて、ようやく静かな寝息を規則正しく立て始めたのを聞いて、コーラルは絶対に何一つ物音を立てないように気を付けながら、ベッドのシーツの間から身を滑らせると、部屋のドアに急いだ。そういう時は必ず足の踵から床に押しつけるようにして歩かないとぴしゃぴしゃ裸足の足の裏はすぐに音を立ててしまう。けれど彼女はいつも通り何の心配もなく抜け出せたようだ。

 部屋のドアを閉めるときが一番の難関だ。この古い戸はいつも閉めるときだけお化け屋敷の中のドアを動かすときに出るようなこれ見よがしの嫌な音がする。しかし、彼女は蝶番の金具の下の部分を部分を指で押しながら閉めると殆ど、きしんで悲鳴を上げたりしないことをすでに発見していたのだ。
そのことに初めて気付いたとき、それは授業のない日の昼間だった。そういうときには同じ部屋の女の子たちの全員が当然、町に出かけたりしたりしていたので、寝室は空っぽだった。そこでコーラルは秘密でドアの蝶番に油を差そうと思った。そのために彼女は既に食堂のドレッシング用の食料油を小瓶に盗んで持ってきていた。そして、その苦労して手に入れた油を、実は彼女はその油の香ばしい香りがみんなと違って大嫌いだったので匂いを嗅ぎすぎないように顔を背けながら、丸めたティッシュに吸わせた。

 それから彼女は、廊下に出るとドアの前に座り込んで、蝶番の金具に油を染み込ませ始めた。すると、真っ黒だと思っていた金具は本当は金色に光ることだって分かってきた。
「これだけやれば十分よね。」
彼女は一人で満足げにつぶやくと立ち上がって、ドアのノブを回し、少しだけドアを閉じたり開いたりしてみた。すると、腹立たしいことに返ってギーギーいう音がさっきよりも大きくなっているとしか思えなかった。仕方がないので彼女はまた廊下にあぐらをかいて座り込むと、またティッシュをつまんだ。
「今度はもっと多いめにありったけ油をぶっかけてやる。」
「油なんて差しても無駄よ。そのドアは直せやしないわ。」突然耳元でささやく声がした。彼女は驚いてビクッとして、手に持った油の瓶を床に落としてしまった。その瓶は床の上をかなりの早さで転がっていき、中の汚いジュースで床に点々と黒い跡の線を描いた。コーラルは静かに振り返ったのだが廊下には誰もいなかった。ということは声の主は部屋の中にいる。

 彼女は瞬時にそのくぐもった声が誰のものか分かった。ランニ・ユシテルグスだ。そうに違いない。あいつはまたお腹の調子でも悪くして、部屋で寝込んでやがったんだ。すると、ユシテルグスは、私が廊下の曲がったところにあるヤシの木の植木鉢の影に隠したドレッシングの瓶を取りに行っている間に部屋に戻ったことになる。コーラルは彼女の声がいつも震えていて陰気なのと、彼女の唇がいつもカビが生えたみたいに白くてかさかさになっているのを見ると、いつも軽い嫌悪感を覚えているのを思い出した。つまり六年間一緒に暮らした印象がそれしかなかったのだ。

「そこにいるのコーラルでしょ?こんな妙なことするのあなただけだもの。」 
もう少しだけドアが開いてランニのいつも通りの曇ったやけに大きい眼鏡が顔を覗かせた。
「私、ダフィン達と外にケーキを食べに行ってたんだけど、あんまりダフィン達がドーナツを頬張るもんだから、私、それを見ていたらまた気分が悪くなってきたんで帰ってきたのよ。」
「分かったわ、ランニ。悪いけど、私はあなたのお腹の具合がどんなふうな理由で悪くなったかなんてどうでも良いのよ。それより、どうしてあなたは私がドアをこんなふうに開け閉めしていただけで、このぼろっちいドアのきしみ声を何とかしようとしていたことが分かったの?」
「それは分かって当たり前よ。私も前にあなたみたいにそうやってドアのこと試したことがあったから。」

コーラルは初めて意外そうにランニの眼鏡の奥で丸く黒く光る彼女の目を見上げた。彼女も同じように夜中に脱出しようと思ってたんだろうか。いいや、そんなはずはない。彼女が、みんなより先に寝たいと思ったときに、みんながばたばたドアを開け閉めするもんだから、少しでもその耳障りな音をなんとかしたいと思ったのに違いがない。でも、そうだとすると、なぜ彼女はあのプラックスの嫌らしい番人にドアの修理を頼まなかったのだろう。普通の用事なら彼女は絶対そうするはずなのに。また、ドアの向こう側から、ランニのくぐもった声が聞こえた。

「私そっちへ行っても良い? コーラル。私、そのドアのうまい閉め方を知っているのよ。あなたにだけ教えてあげても良いわ。」
コーラルがどう答えるべきが悩んでいる内に彼女はすっとドアの隙間から出てきた。その動きは、栄養の足らない毛並みの悪い猫みたいだとコーラルは思った。
 ランニは、未だ腰を抜かしたようにあぐらをかいているコーラルとドアの隙間に身をねじ込むようにしてしゃがむと、彼女の髪からつんとハッカの香りがした。彼女が具合が悪くて息がしにくい時に胸と鼻の下に塗る軟膏の匂いだ。いつもはコーラルはそんな匂いは嫌いなはずだったのに、今日はあまりそうは感じなかった。
「こうするのコーラル。よく見ておいてね。」
彼女の細い指がドアの蝶番に触れると、すこし上に飛び出た部分をぎゅっと下に押し込め始めた。「ほら、こうしといてドアをゆっくり閉めたら、大丈夫でしょ。」
 確かにあの嫌な音がほとんどしなくなった。彼女はゆっくりコーラルの方を振り向くと静かに笑った。コーラルもそれにつられて、笑いながら答えた。
「うん、ありがとう、ランニ。でも、あなたは、夜中にここを抜け出して一体何をしているの、体が弱いのに風邪を引いたりしない?」
 ランニは少し驚いた表情をして立ち上がると、コーラルの長くてくしゃくしゃになった髪の毛を見ていた。
「そうね。猫にあったり、星を見たりしているわ。ただ、散歩しているのよ。門番のプラックスだってとっくに眠っているし。私、夜はけっこう気分が良いの。それに昨日なんて流星を沢山見たわ。この時期になるとガリュフという星座から毎年決まってやってくるのよ。青く光ったり虹色の火花を出して飛び散ったりしてとてもきれいだった。」
「ガリュフからやってくるの。そう、知らなかった。」
「ふふ。コーラル何言ってるのよ。ちゃんと最近授業で習ったじゃないの。ガリュフは人間が二千五百年前に見つけてくれたって。」

確かにコーラルは授業を受けていたが、その科学の時間は一人で考え事をしたり石版に想像の果物の落書きをこっそりしたりして過ごすのが一番有意義だと確信していた。
「そうか、その虹色の火花の流星、私も見たいわ。」
「ええ。良いわ。コーラル教えてあげる、どこにそれが見えるのか。だから今のうちまた私、ちょっと眠っておくわ。」
またランニはドアの隙間を素早く抜けると、そっとドアを閉めた。その時、コーラルは金具を押して音が鳴らなくなるのをしっかり確かめた。
「やっぱり、うまくいったでしょ?それをみつけるの大変だったんだから。絶対他の人になんか言っちゃだめよ。でも、これで夜中に誰にも見つからないで外に行けるのはこの部屋ではコーラルと私だけになったわね。」
 そうして、小さなベッドのきしむ音が一度だけ聞こえた。また彼女は眠ったのだ。
 ランニは彼女が夜中に外に出たがっている理由をどうして聞かなかったんだろうか。もしかすると、ただ、自分もランニと同じように外に出たいだけかもしれないと、コーラルは思った。

 そして今日、それがすばらしく役に立つ日がやっと来たのだ。コーラルはランニだって眠ったままだということを、しばらくドアに耳をつけて確認すると、ヤシの木の植木鉢の裏の錠の壊れかけた窓を開けて、中庭に出た。昼間だと、彼女のことをプラックスの園丁が目を光らせているので、石一つ拾ったって、彼が神官長の所に報告に行くのに違いがなかった。

 しかし、こんなふうに夜に外に出られるのは、月が満月に近いぐらい照っている時でないと、暗くてとても無理だろう。ランニはどうして大丈夫なんだろうか。
 そして、コーラルは中庭の縁の石畳から芝生のところに踏み出すと、そこが気持ち悪いぐらいに冷たく湿っているのに驚いて、急いで足を引っ込めた。昨日は雨が降っていたからまだ乾いていなかったのだ。
「死んで死体になって冷たい血に濡れている動物たちの毛皮の上を歩いているみたい。」
コーラルはしばらく行くと、足の指先に堅く触れる物を感じた。その石を持ち上げるとき、動物の毛皮に突き刺さった鱗を抜くときとそっくりの手応えを覚えたので、彼女は嬉しくなってしまった。彼女が思っていたのに丁度良い大きさだったので、それを寝間着のポケットに入れ、「私のための小さな石の卵、どんな色をしているかは明日見てあげるわ。なんだか、私の産んだ卵みたいね、すごくトゲトゲ手に引っかかる感じがする。」と静かにつぶやいてみながら、彼女は寝室に戻った。

 次の日、誰よりも早く起きてみると、自分のシーツがしわくちゃで泥だらけになっているのに彼女は驚いていた。足を洗わなかったから当然だ。でも、運良くシーツを洗濯する日だったので、手早く引き剥がして丸めると、バスケットの中に放り込んでおいた。そうしておけば、みんなが次々入れていくのだからばれないに違いがなかった。それから、マットレスを少し持ち上げて、手を突っ込むと昨日のままだったことに、ほっとして彼女の石の卵を掴み出した。そして、みんなに背を向けて出来るだけ見られないように気を付けながら、それを日にかざすと、見たこともない鮮やかな赤茶色をした、ぼこぼこ小さな穴の沢山開いた、奇妙な石だった。おまけに普通の石よりもなんだか重い気がしたのも彼女が気に入った理由になった。それは彼女が石を探している目的にはこの上なくぴったりだったからだ。

 そうやって、石のことを思い出しているうちに、彼女はパンの間に挟まっていたその石をすっかり綺麗にし終えた。とは言ってもその表面にある無数の小さな窪みからバターをいちいちぬぐい去るのは不可能だったので、そのことは気にしないことに決めた。その石はバターに濡れていたから、今まで以上に赤くぬらぬらしていた。それを見ていると、彼女はあることに気がついた。その石が生きているうちはそんな色をしていて、死んだ後はもっと違う物、あの彼女たちを守るとされていた忌まわしい物になるのではないだろうか。彼女はゆっくり天井のガラスを振り仰ぐとそれは間違いではないように思えた。しかし、彼女がそれをじっくり見れるのも、今日で最後だ。

「私があの赤いガラスを殺したとしても、それはあの死んだガラスが生きていたときの石で叩き破るのだから、本当は殺したことにならないんだ。」彼女は取り憑かれたかのようにつぶやくと、石を取り上げて、天井のガラスに向かって投げつけた。一度では巨大な蜘蛛の巣のような赤いひび割れが出来ただけだったので、落ちた石を拾って、今度はもっと強く投げつけた。すると、赤い血のような固まりが産み出されて、床に落ちて粉々になった。その、ビーズの跳ねる様子を満足げに眺めた。

 そして、それが止んでからもう一度投げると、しばらく石がささったままミシミシ言っていたが、今度は天井全体のガラスが一挙に雪崩のように落ちてきた。それは、コーラルの視界全体を覆う、恐ろしく赤い光の雨だった。彼女はそのきらめきをずっと見ていたいと思ったが、そういう訳にはいかなかった。彼女は天井全部のガラスが落ちてきたとき、そこから逃げることを忘れていたのだ。彼女はその赤い光の雨は、自分のために降って、暖かいとさえ感じたが、最後にはガラスの鋭さに打ちのめされて、何も見ることが出来なくなってしまった。

 数分後には、地響きのような音に驚いたプッラクスの番人がドアを蹴り開けたのだが、彼女はそれに気付くことはなかった。彼女は血まみれで痣だらけになって、誇らしげな笑みさえ浮かべて、気を失って倒れていた。
 コーラルはその後、すぐに意識は取り戻したのだが、なぜか殆ど物を見ることが出来なかった。神官医師の話だと、それは傷による物などではなく、何か限度を超えた明るい物を長時間正視し続けたか、また、彼女自身が見ようとしていないからではないかということだった。

Lezarakus
chapter 8
Copyright (C)2004-2018 Yoshito Iwakura
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 トワンス・ロフが彼女の前に姿を見せたのは、それから二週間経った後だった。
彼が、突然彼女の病室に軽くノックをした後に、返事も待たずに入ってきたとき、彼女はその訳の分からない相手を十分引きつけておいた後、どこでも良いから、無茶苦茶に噛みついてやろうと身構えていた。彼女はそうすることで、嫌なプラックス達から目の見えない自分を守ろうとしたのだ。いつも、そうしていたら、近づいてくるプラックス達は全員、「まあまあ、落ち着いてくれ、コーラル、君の教師のシャウザーだよ。大丈夫だ。噛みつかないでも良いよ。」などと、無様になだめるので少しそれが面白かったのかもしれない。

 暗闇の中は返って彼女を安心させた。あの、嫌らしいプラックス達のぶよついた皮膚を見なくて済むからでもあるし、闇は彼女には優しく感じたのだ。
 しかし、数日すると見えるということさえよく分からなくなってきた。だが、病室に閉じこめられるしかない今となってはそれもそれほどには不自由にもならなかった。
 彼女は自分がやっと見なければいけないということから開放されたと知って正直ほっとしたのだった。
 それに、彼女はよく知っている相手ならだれでも、その匂いを嗅ぐだけで分かる気がした。だから、ランニが彼女が眠っている間だけ面会を許されて部屋に黙ったまま座っているときも彼女が、何分間そこにいたか言い当てることさえ出来ただろう。

 ランニはコーラルに噛みつかれるかも知れないからあまり話しかけるなと言われていて、また、本当に話しかけたりなんかしたら、プラックスの教師から厳しい罰を与えられるかもしれなかった。だから、彼女が部屋に来たときにコーラルが一度だけ「ありがとうランニ、でも、返事はしなくても良いわ。」と外の廊下で番をしている教師に聞かれないようにささやくのがやっとだった。

 そして、今日コーラルの所に来た奴は、そのすえた匂いからすぐにプラックスだとは分かった。でも、あまり嗅いだことのない匂いだったから、全く誰か分からなかった。
 どうせ、どこかの偉いプラックスが目の見えない化け物を見物にやって来たのに違いがない。そう思って、彼がコーラルのベッドの脇のイスにゆっくり腰を下ろしたとき、素早く彼の方に飛びかかろうとした瞬間、彼女が犬のように歯をむき出しにした。だが彼がそれを驚いたり悲鳴を上げたりしなかったので、コーラルはビクッと痙攣するだけで動きを止めた。
 しばらくしても、その男が何も言いはしないので彼女は不安になって問いかけてみることにした。
「あんたは誰?いったい何の用?」と。すると、彼女が聞こうと息を吸い込んだ時に彼は突然に話し始めた。
「私はトワンス・ロフという者だ。君の大嫌いなプラックスだよ。ただ、私は自分がプラックスであることを確かめにここに来たんじゃない。それに私が来たことで君が助かるというわけでもないんだ。知ってるだろう? 君のプラックスの教師達が君をやっかい払いしようとしていることを。奴らは君が神聖な守護ガラスをああいうふうに憎んで、破壊しているということにうろたえてるんだよ。それで神官医の手にさえ余るといったときに決まって私が呼ばれるんだ。」

 男は少し黙ってせき込んでから話を続けた。コーラルの耳には彼が気道に息を吸い込むきしんだ、すきま風のような音が聞こえた。
「そうでなければ、私がこんな薄汚いネズミたちの塔にやってくるはずはない。」
コーラルは見えない目を見開いて彼を睨み付けた。
「そうね、確かにあなたがここに来たのは間違いだったわ。早くあなたの居心地の良い巣の中に戻った方が賢明ね。私は決してプラックスの教師達の言いなりにはならないし、あなたの思い通りにもならないわ。私は見えなくたってちっとも困らないのよ。」
 その男はふふっと馬鹿にしたように笑ってみせた。
「そうだな、確かに困らないだろう。プラックスの神官医は君が本当は見えているのに、君が見ることを拒んでいるから、見えぬとでも言っていただろうが、それは嘘かそうでなければ間違いだよ。
 しかし、私は君が望むのなら、見えるようにすることだって出来るし、そうでなければ、見えないまま永遠に閉じこめられているしかないな。」

 そう言いながら、トワンスは自分の今言っていることが突拍子もない比喩か冗談にしか聞こえないだろうと思っていた。本当の永遠とやらが住む場所に君が行く、とか言っても理解する奴はいない。でも、トワンスはこの子がそうはならないのをはっきりと確信していた。
「君が本当は拒みたいものは、見ることなんてものではなく、プラックスを受け入れることなんだろう?
 本当は君はすべてのレザラクスがせねばならぬと赤土の本に書かれている帰胎を受け入れるということから免れたいと思っているだけなんだろう?」

「あなたは一体、何?
 そうよ、私は多分そう思ってきた。でも、そんなことを口に出されたなんて初めてだわ。 そんな気味の悪い化け物「死の胎児」をお腹の中にしばらく住まわせろなんて言われても気持ち悪くて、仕方がないのよ。たとえ、神様に言われたとしても関係ない。
神様がそうしなければ殺すと言ったって私は嫌だわ。」
 トワンスは少し頭を振って、息をついた。
「なるほど、そうか、それでは今日私がここに来た訳を教えてやろう。
一つは君の目を見えるようにするため。もう一つは君に選択する権利をやるために来たんだ。私は決して呼ばれたためだけにここに来たのでは無い。」
 トワンスが彼女の見えない目を覗き込むと、それは夕日を反射して奇妙なオレンジ色に光っていた。その仕草はまだ彼女が感じたり、考えたりする能力をちゃんと持っているのか訝っているかのようだった。
「そう、分かったわ。あなたの言う権利とやらを私は貰うわ。それがたとえあなたの思うとおりだってしても私はかまわない。私がそのあなたの言う永遠というものに閉じこめられるんだとしても、私はここから出たいの。
だから、見えるようにして。」

「そうか、それでは、まず見えるようにしてやろう。しばらくじっとしていてくれないか。それで、私が良いと言うまでまぶたを閉じていてくれ。」
 コーラルは男がそう言ってから目を閉じて待ち続けた。自分にとって目を閉じるということが意味をなさなくなってからどれくらい経っただろうか。と、考えながら。
 そして、男がすぐ近くまで来たのを感じるとコーラルは思わず身を固くした。そして、まぶたに凄く柔らかくて、暖かいものが静かに押しつけられたのを感じた。それに、その近くからする、生暖かな男の息も。
 コーラルは男が自分の右のまぶたに口づけをしたことを悟った。コーラルは自分がただ、だまされただけだとすぐに気付いた。しかし、そのあと少ししてからまぶたを激しい痛みが襲い始めた。
「あなた、私の目に一体何をしたの?」
コーラルはまぶたを必死に手の甲でこすって、今されたことを帳消しにしようとしていた。
「ただ、口づけをしただけだ。
大丈夫さ。明日には見えるようになってる。
そしたら、私は君を迎えに来るよ。
そう、言い忘れていたけれど、私が来たところは、仮の神の子宮、私はそこの番人だ。
それで、君も、そこに行くんだよ。」

「仮の神の子宮・・。」
 コーラルはまだ痛みに耐えかねていると、急に何かが目の前に浮かんでいた。優しい夢から出てきたような色だった。恐ろしくぼんやりしたオレンジ色の霧の光。窓の外に見える風景なのだろうか?まだ、夢の中にいるとそれは形を変え始めた。どんどん上下に引っ張られて、世界の割れ目になる光になった。
 彼女にはそれがまだ何か分からなかったが、匂いで感じ取ることが出来た。蝋燭が燃えているのだ。そして、彼女はいつの間にかその男の匂いも消えていることに気がついた。古くさいすえた毛布の様な香りも。

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