六章
見えないトゲは八本のみ
コーラル・グラズセンがリルファーのいる病室、虹の息の部屋に始めてやってきたのは、彼女がそこに入れられてから3週間経った後だった。トワンスが言うには、彼女はもう十分に回復しているはずだ。という事だったが、コーラルが見たのは意外なものだった。
彼女はノックしてから重たく湿った扉を開けたのだが、その時に右手の人差し指に木のそげを刺してしまった。それから、その赤い実のような液体のついた指をなめつつ、ベッドの方を見ると、シーツが白く盛り上がっていて、そのしわの間から垢にまみれた2本の長いすねが突き出されていた。その足にはカビが生えているようだった。コーラルは子供にしか生えない甘い匂いのカビがあることを思い出した。コーラルは自分にもそんなひび割れが子供のときにはあったのだろうかと考えながら口を開いた。
リルファーはすっぽり頭までシーツを引き上げていたから、シーツの長さが足りなかったのだろう。しかし、その薄いシーツを透かしてこちらを見ているのがコーラルには分かった。彼女の緑色の目がグロテスクに光るのさえ見える気がした。
「あなたはトカゲのような目をしているのね。暗闇でないとちゃんと物を見ることさえ出来ない。」
そう言ったとたん、リルファーは馬鹿にされているのがちゃんと感じ取れたのか白い布に包まれた頭を少し震わした。
「私はコーラル・グラズセン。あなたにしたい話があったから、来たの。あなたはただ黙ってそのまま聞いてくれさえすればいいわ。」
コーラルは足の壊れかけて自分で立っているのがやっとという小さな椅子を部屋の隅から拾い上げて座ると、もう一度リルファーを見た。未だにぴくりとも動かずに死んだようにベールを掛けられた様子を彼女以外が見ても、決して静かに話しかけたくなる代物ではなかった。「赤土の本に書かれている小さな童話を聞いてもらいたいの。あなたが今まで知ることの出来るはずのなかった話よ。」コーラルは仮の神の子宮のトワンスの部屋で読んだその赤土の本の写本のカビの匂いが今でも鼻の奥にこびり付いて消えないのを確認した。そういえば、なぜトワンスはコーラルにその本を読むことを許したのだろうか。
「レエンヒュージ、見えないトゲのある木の話。
昔、赤土の本の書かれるずっと前にクザルイト・フレアと呼ばれた、レザラクスがいました。クザルは木登りが仲間に比べて全く上手ではありませんでした。
しかし、ある時、仲間が決して登らないと決めている木が町に一本だけあることに気が付きました。それは木登りの一番上手なゲペグが登ろうとして落ちてしまい、左手をひどく挫いた木でした。
ゲペグの話だと、その木の下の方にはトゲは一つも無かったけど、もう少しで天辺というところまで来て、手を伸ばすとチクチクと痺れる様なトゲがあることに気が付きました。それで仕方なしにもう少し余分に手を伸ばしてトゲの無いところを探そうとしましたが、それでも、まだ、トゲがあるようでした。ゲペグは手袋を持ってこなかったことを悔しがりましたが仕方なしに一度下まで降りることにしました。
そして、ゲペグは柔らかな股の関節を活かして一気に滑り降りようとしました。でも、その時ゲペグは大変驚きました。
登る時さっきまでつかんでいたのに違いがない枝にもトゲがたくさん生えていたのです。まるで、今この瞬間に、自分の事を転げ落とそうと、トゲを木が生やしたのではないかとゲペグは思いました。だけど、ゲペグはちょっとした自分の思い違いだろうとタカを括って、次の下の枝をそっとなでる様に探りました。
しかし、やはり、そこにもトゲがありました。ゲペグの手のひらはもう血だらけになってしまい、しばらくすると木の幹を抱く力も抜けていくのを感じました。
それでゲペグは身を投げるようにして、頭のほうから地面のほうに落ちていきました。ゲペグは自分がもう死んだと思いましたが、左手を挫いただけで済みました。仲間はゲペグの事をついてると言いましたが、ゲペグは擦り切れて血のにじんだ唇をかむだけでなんとも言いませんでした。
その木にクザルイト・フレアは登ってみようと思ったのです。他のどんな低い木に登ろうとしても重い体を支えきれずに手を滑らせてお尻に紫の大きな痣を作るしかなかったフレアでしたが、その木だけは自分なら登れるような気がしてしょうがなかったのです。
フレアは全ての人が寝静まった月の明るい晩にその確信を試してみようと思いました。彼女はゲペグの事を聞いていましたから、厚い皮の手袋を農家の納屋から盗み出して持ってきていました。それは馬の糞の匂いのする、ひどいものでしたが、それしか、手に入らなかったので仕方がありませんでした。
彼女はその手袋をしてみると自分が実際に興奮してきているのを感じ、その馬の汗の匂いさえ心地良く思いました。彼女は見えないトゲのある木の下に立ち、月の光に透かして天辺を見ようとしました。しかし、案の定、木の上の方は霞んでよく見えませんでした。でも、反ってその方が彼女は安心して登れるような気がしたのです。
それから彼女は太い木の幹を抱きしめて、少しずつ登っていきました。まるで夢の中で登っているかのように自分の体の重さがまったく感じられないのがすごく不思議でしたが、そのことにも大して気を触れずにフレアは木のかさかさに乾いた感触を楽しんでいました。そしてしばらくして自分より上の枝が細くてこれ以上は登れなくなったことから自分が天辺にたどり着いたのだということをフレアは知りました。
フレアはこれまでに無いくらい良い気分でしたから、もう上が無いことを少し悲しみました。
しばらくして、フレアは下に見える風景を見てみようと覗き込みました。その時彼女が見たものは実に不思議なものでした。それは彼女にしか見えるはずの無い、光り輝く蜘蛛の巣に似た青い光でした。それは青空の切り取られた色にそっくりでしたが、その時は夜でしたし、それよりかははるかににじんで見えたのです。」
そこまで、話すとコーラルはそれまで何も話してはいなかったかのように静かに口を閉じた。彼女はリルファー・ラグドザムがいつの間にかシーツを目の半分だけ見えるようにずらしてこちらを見ているのに気付いたからそうした訳ではなかった。「一体何だって言うのよ。そんな寝ぼけたどこにでもある話をして。私の事を馬鹿にしているの?」
そうリルファーは吐き捨てたいと何度も思ったが、なぜかコーラルの様子を見ているとそうする気が失せてしまった。だが、彼女はコーラルの自信に満ちた沈黙にそれほど長く耐えられるはずはなかった。彼女はベッドから起き上がると、にこりともせずにコーラルを睨み付けた。
「その不思議な蜘蛛の巣をあなたも見たとでも言うの?」
コーラルはクスリと肩を揺らして一瞬笑った。
「私には見ることは出来なかったわ。でも、あなたは見たのよ。だから、あなたは今のようになったのよ、リルファー。」
初めてコーラルに名前を呼ばれたリルファーはその鈍い響きに軽い眩暈を感じた。そして、極めて穏やかに話し始めた。「私は生まれてこの方そんな珍しいものなんて一回も見たこともないわ。私が見てきたのは、死体みたいなあんたたち、プラックス。それに死ぬことさえ出来ない、レザラクス。
それにこの部屋の天辺を這いずり回る不気味な黒い虹の光よ。私が見てきた物なんて。
私は今まで何も見なかったのと同じ、目玉があんたたちによってあらかじめ潰されてたんだわ。」
そんなふうに言うことによって、今まで彼女の周りの全てのプラックスは、急にうんざりした様な顔つきをして彼女から目を反らし始めるのが普通だった。
そして、好きにすれば良いとかなんとか言って、彼女が始めからそこにいなかったのと同じように振舞い始めるのだ。そうやって今まで彼女はどうでも良いことに首を突っ込まれるのをうまく避けてきていた。しかし、コーラルはそれと違っているようだった。
「そうね、確かにあなたの目は潰れているわ。だけど、そうだからこそ逆に見ることが出来たのよ。あなたはさっき私たちの事を死体みたいって言ってたけど、あなたが見ることが出来る唯一の物はあなたの死体なの。あなたは、今までで一番理想的なレザラクスであることにあなたは気付いていないのね。」
そうして、また少しコーラルは口を閉じて沈黙を作り出すと、今度は調子を変えて、急に早口で話し出した。まるで詰まらない事に口を滑らしたことを後悔しているように。
「私がさっきあなたにしたおとぎ話に科学的な裏づけをしてあげるわ。実際的に言ってプラックスとレザラクスは目の組織の機構が異なっているのよ。レザラクスの眼球の中の水分の割合はプラックスのそれに比べて1・2倍もあるの。つまりレザラクスの目は水生生物的で、プラックスの目は陸生生物的であるということがいえるのよ。
その事と関係があるとははっきりとは言えないけど、フレアの身に起こった事についてこう推測が出来るわ。フレアとゲペグが登ったとトゲのある木、レエンフュージは視覚にのみ作用する幻覚性の毒をトゲに分泌していたとすると、ゲペグはその毒の作用を受けて視力が落ち、その、ちょうど逆にフレアは腕力が殆ど無いにも関わらず、恐ろしく高い木であるレエンヒュージを登りきった。
私はそれさえも毒のもたらす作用によるものだと確信したの。つまり、プラックスとレザラクスの毒の受容性質の差なの。
あなたは、なぜ、ゲペグがプラックスであるというふうにいえるのか、不思議に思うでしょうけど、腕力の強き者と言えばプラックスであり、弱きものはレザラクスなのよ。
そういう言い回しはとっくに廃れているけれども、古い本の中では何千回と使い古されてきた言葉だということは常識だわ。
またこうとも 言えるでしょう。
体の中に水を持つ、レザラクスは毒を溶かし込んで、プラックスのために再利用できる形にしているともね。
そして、それこそが彼女が虹のような幻の蜘蛛の巣を見つけた理由だと断言できる。レザラクスとプラックスは同じ人間であるはずなのに眼細胞の機構の差によって見えているものが僅かながら違うの。
プラックスには見てはならないとされているものをレザラクスは見れるのよ。
あなたみたいに神によって潰された目を使ってね。確かにあなたほど潰れた目を持つ者は今までにいなかった。」
コーラルは赤く光るような、恍惚とした表情を隠さずにリルファーを見た。リルファーには、この女の言う事がさっぱり理解できるはずは無かったが、彼女が自分にただならぬ執着を感じていることのみは感じた。確かにこの女は私よりも何処か狂っているんだろうけど、だからこそ利用できるかもしれない。そうリルファーは考えることによって何とか自分をなだめようとしていた。
「あなたは私の事を一体何だと思っているの?神様に選ばれた気違いか何か?」
そのようにリルファーは聞いてみようかとも思った。だがこの女はそんな問いには答えようともしないだろう。リルファーは彼女がこの先何を言うのか待つ他は無かった。
「リルファー、あなたは十分私の期待に答えてくれた。さっきあなたが言ったことで、私の学説を証明してくれたのよ。
黒い虹の息の部屋で実際に虹を見たのはあなただけ、今までここに入れられた、レザラクスたちは本当の意味で完全なレザラクスではなかったのよ。
私はあなたがレザラクスで有り続けたいと願うのなら、それに協力するわ。」
リルファーはそっと自分の方に身を寄せて頷いてみせる、コーラルの仕草が、学校にいた女の子友達たちの秘密のささやきをする時にそっくりに見えた。
大抵、そのような時には予想もしないような、嫌な結果が待ち受けているのをリルファーは知っていた。だけどもコーラルのその申し出はリルファーの子供染みた嫌悪感を簡単に乗り越えてしまう種類のものだった。
「本当にあなたにはこの部屋の黒い渦が見えないの?」
そう小声でリルファーが呟いたのが、コーラルには聞こえなかったのだろうか。だが、本当は次に言おうと思った事が、その答えになっていることに気づいたのだろう。コーラルは少し間を置いて話し始めた。
「そうね、あなたに言い忘れたことがあったわ。クザルイト・フレアの事よ。彼女はレエンヒュージの天辺に登ってから地面に降りて、そのときやっと気づいた事があったの。
それは、ゲペグが手を刺して苦しんだ、木の棘は本当は八本しかなかったのよ。たった八本だけ。
そして彼女は、その棘の一本に自分から進んで手を刺したのよ。
だから、彼女には幻のクモの巣が見ることが出来たんじゃないかしら。
実際的に考えてもクモの巣なんて見えないから引っかかる奴がいるのよ、網が見えさえすればそれを避けることなんて、誰にでも出来ると思わない?
そしてその事は、ほとんど同じことを意味している。
あなたが自分の腕をかじったことと、黒い虹を見たこととね。
あなたは、多分気を付けさえすれば、この部屋の黒い虹の意味がわかるはずよ。そうすれば、あなたは、レザラクスのままでいられる可能性が生まれてくると思うの。」
コーラルの言葉は、リルファーのなかで幻の様に響いた。
それだけ言うと、コーラルはすばやく立ち上がって部屋を出た。まるで、その部屋の中には自分以外の誰も居なかったように、ドアを開けるときにも振り返りはしなかった。
それを見てリルファーはコーラルのことを信用してはならないことを知った。
しかし、彼女の言うクモの巣とは、一体何なのだろうか。
また、この部屋の天辺に煙のようにうごめいている、黒い虹はそれほど悪いものなんだろうか。リルファーにはそんなことは別にどちらでも良かったが、その黒い虹を見たことと、自分の腕を歯でかじったことが、同じことだというコーラルの奇妙な説明が彼女をたまらなく不安にさせた。
彼女にはまだ、その黒い虹が悲鳴でも立ててくれれば、ましではないかとしか思えなかった。