レザラクス 赤い土

二章 髪の毛の部屋の中のリルファー

 コーラル・グラズセンが第三研究室と銘打たれた、薄汚い休憩室に戻ったとき、中にはルゼスの姿はなかった。ただその一分前には彼が待ち構えていたのだろうという事が、部屋の中の湿り気と匂いから分かった。

 彼はいつも口臭を消すための安っぽいタブレットを口に含んでいて、その匂いが部屋にしていたのだ。

 彼女は自分に一年前にここに来たときから割り当てられている、ぬめぬめと安っぽいニスが光る木のイスに座った。背もたれのあばらが一本欠いてしまっているので、後ろに寄りかかることは出来ないのだが、ルゼスがついさっきまで腰掛けていたくぼみのはっきり付いている、汗の染み付いたソファーになど座るわけにはいかなかった。

 たとえ今は彼は部屋にいなくてもすぐに帰ってくるかもしれなかったからでもあった。彼女がそのソファーに座ることがあるとすれば、それは彼がいて、彼がそこにコーラルを呼んだ時だけだった。もはや、生殖と無関係になったその行為の時だけ彼女はそのソファーに寝転ぶことを許されるのだ。そのことは彼女に嫌悪感しか感じさせなかったのをルゼスは気付いているのだろうか。

 彼女が「仮の神の子宮」と呼ばれるこの場所に配属されてきたのは、彼女がプラックスになってから3年経ったあとだった。

それまでの間は神官養成院にいて生命神学の勉強をしていた。彼女はまだ後数年はレザラクスである女の姿のままでいようと決心していた。普通は、死の子供を宿し、レザラクスを産んだ後は、すぐにでも男性化促進剤を飲んで男の姿になろうとするのだが、コーラルはそのベルタラスクスと呼ばれる薬を飲むことを拒んだのだった。

教官の神官たちも内心馬鹿にしていたのだろうが、赤土の本に書かれているままに振舞おうとすればそうするのが正しいともいえたので、彼女のことを無視していた。

そして確かに彼女は優秀な成績だったので、唯一の聖職といえる仮の神の子宮の神官の一人に彼女を加えたのだった。しかし、彼女以外にそこへの配属を望むものなどだれもいはしなかっただろうということも、事実だった。

そうとはいえ、彼女の聖女とやらの信心から、その職に就きたいと思っている訳ではないということを、見抜ける教官の神官がいただろうか?


 彼女が部屋に帰るまでの廊下はいつも通り冷たく湿っていたから、中はむっとするぐらい暑く感じた。ガラス張りの温室の中に急に入った時のように。

 しかし、それにもやっと慣れたころに、部屋の戸が狭く開いて、冷たくて重い風が息を吹き込むようにして一瞬だけ入った。そして、ぶ厚い戸の隙間から、押しつぶされる前にルゼスが身を滑り込ませてきた。

「なんだ、コーラル。戻っていたのか。君はリルファーの所に様子を見に行っていたのだと思っていたんだが。」

「いいえ、彼女の所には行っていないわ。それでどうだったの彼女の容態は?あなたは見たんでしょ。」

「確かに髪の毛の部屋に行ってきたよ。少しの間覗き窓から見ただけだからなんとも言えないけど、第三期にもう入っているみたいだった。でもとにかく、あいつの面倒をみるのはクスベーガルの役目なんだから、奴がなんとでも好きにやればいいんだ。」

 ルゼスは少しの間言葉を切っていた。その間に自分の今言った言葉が、クスベーガルの中に浸透していくかのように。「だけど、そうなった以上はこっちもすぐにでも死の子供を使える状態にしなくてはいけない。大体、クスにレザラクスを早く成熟させてくれって、頼んだのはこっちのほうなんだからな。」

 コーラルは、その言葉に何も反応しないように黙って彼のことを見た。彼女は必要以上に死の子供を薬物操作するのを何よりも嫌っているのだ。それとも彼女が嫌っているのは自分の事かとも、ルゼスは感じた。彼はそのような自分に対する他人の嫌悪感を快感に感じるタイプなのだろう。彼は灰色に短く刈り上げた髪の毛を心地よさそうに2度かき上げて見せた。そして、彼がゆっくりともう一度口を開いた瞬間にコーラルは鋭く言った。

「もう何もしなくても25番があと3日で成熟するはずよ。」「そうか。それなら安心したよ。俺たちはただ待っていれば良いって訳だな。俺ももうあの気色の悪い奴に、真っ黒いグメルズスの注射をチイチイ鳴いてる背中に、打ち込んでばかりいるのなんてうんざりだからな。」

 そんなはずはないだろう、あなたは毒薬の注射を打ったりする瞬間を生涯の中でもっとも愛しているのは間違いないことだと今すぐにでも言ってやりたかったが、彼女はいつも通りその感情を無視した。「とにかく今夜も別に変わったこともないみたいだし、俺は部屋に帰るよ。」

 彼はコーラルについて来てほしいという、見え透いた目付きをして見せた。彼にそのようにあからさまに意思表示されると彼女はいつものように、背中に怖気を感じた。それは快感に似ているともいうことも出来るだろうが。

「私はここにいるわ。さっきの観察記録もまだ書いていないし。」
ルゼスは白衣を脱いで壁の鉤に掛けると、髪の色と同じ灰色の皺だらけのコートをはおると、お疲れ様と低くつぶやいて部屋を出た。最後の一瞬に彼女のいる部屋の空気を肺に覚え込ませるために、深く息を吸い込んでから。

それは、彼女のいないところにはまるで空気が存在すらしていないとでもいう様なそぶりだった。しかし、コーラルはそんな空気なら吸わなくても自分は生きていけるはずだ。と、口の中でつぶやくと、机に座って、まだ死の子供たちの匂いの残るノートを広げた。自分も将来、そんないじけた胎児たちに姿を変えるのかと何度考えても、素直にそのことを納得するのは、非常に難しい問題だった。

 それは、自分がかつてレザラクスだった時に、死の子供を自分のヴァギナの中に潜り込まさなくてはならないと教育されていたのを鵜呑みに出来なかったのと同じであることに、コーラルは半ば気付いていた。

 しばらくして、コーラルは誰かに肩を揺さぶられるのを感じた。そして彼女を呼ぶ声はだんだん大きくなって耐えられないぐらいになった。やっと目蓋を開けたコーラルは自分が机の上で眠っていたことに気付いた。

「おい、コーラル。悪いが起きてくれ。なんだか嫌な事が起きた気がするんだ。」
「何かあったの、クスベーガル?」
彼のもじゃもじゃした赤くて長い髪の毛が、コーラルの方に身を乗り出しているために、目の前に房になって垂れ下がった。それで痩せぎすの彼の顔や首筋が見えなかったのだが、その中で精気を失ってもなお薄茶色の目が光っていた。

 それは常に夢見心地の目だったが、彼が口を開くと肉色の歯茎がはっきりと見えた。
彼女は彼が話そうとしている、目を覚まさなくては。と、コーラルは少し頭を振った。「とにかく、髪の毛の部屋に一緒に来てくれないか。僕には怖くてどうにも出来ない。」
「ねえ、ちょっと待って、リルファーになにかあったの?落着いて見て来た事を話してみて。場合によっては神官医を連れてこないといけないし。」

 彼女はそう言いながら、神官医が容易にはここに来たがらないだろうということを思い出していた。彼らにとってもここは嫌な記憶のある場所に過ぎないのだから。
しかし、クスベーガルは強く言葉をさえぎってあえいだ。「ああ、でもどうしようもないんだ。とにかく、すまない、早く来てくれ。」コーラルはクスに手を乱暴に引かれて立ち上がると、かすかにめまいがした。
「わかったわ、クス。行くから引っ張らないで。」
彼がこれまでの短い間に何度もうろたえているのをコーラルは見てきたが、今度はいつもと違う様に見えた。

 急いで廊下に出ると、冷たい空気が彼女の胸を締め付けた。白衣を着るのを忘れていた訳ではないのだが、暗い石造りの廊下は窓が無くても、いつも風が吹いているのだった。

 コーラルの前に立ち、すばやく大股で進んでいるクスベの髪の毛が、赤く激しく揺れている様子を目で追いかけながら、神の子宮の守人を呼んでくるべきではないかと声をかけようとも思ったが、その髪の毛の赤い、汗に濡れたきらめきが、今彼女が何を言っても彼には聞こえないだろうということを予感させた。

クスベーガルは中央の大廊下にたどり着くと、左側に曲がった。その細長い建物の西側部分に髪の毛の部屋がある。それは死の子供のいた部屋とちょうど反対側だった。コーラルには自分が死の子供から遠ざかって、髪の毛の部屋に近づきつつあるのが、匂いの変化で分かる気さえした。クスベーガルは気付きはしないだろうが、彼女は自分の中にかつてあった、一度だけの初潮の匂いを思い出していたのだ。髪の毛の部屋の中で、それぞれのレザラクスたちが一度ずつ流す血の匂いは、想像以上の悪臭を放ち続ける。そして、それのみを養分として、部屋の中に生える神の髪の毛は生きながらえているのだ。

 コーラルは仮の神の子宮に来た以上、また髪の毛の部屋に入らざるを得ない時だってあるに違いないと思っていたが、今日その時が来たことを別に後悔しているわけではなかった。ただ、その中の悪臭を思い出すことがたまらなく嫌なだけだったのだ。「ああ、せめてまだ、生きてさえいてくれたら。」クスはつぶやいた。
「え?彼女、死にそうなの?」

 その声に驚いてクスベーガルはすばやく後ろを振り返った。それは彼女が後ろを付いて来ていることさえ忘れているようにさえ見える驚きようだった。彼はそのまま無言で前を向くと髪の毛のすだれの向こうから、ああ、大丈夫だ。心配するな。とつぶやいてまた歩き始めた。その声は聞き取り辛くしゃがれていた。

 確かに、ここ百年間で髪の毛の部屋の中でレザラクスは死んだことは一度も無かったのだ。もし、そうなったら、大変なことになるな。と、コーラルは半ば他人事のように思った。それとも、自分がかつて髪の毛の部屋の中に監禁されていたときに、自殺でもしてやっていたら、大騒ぎになっていたのだろうか、とも空想していた。

 その時、目の前にいた、クスが急に立ち止まったので、彼女はその背中にぶつかりそうになってしまった。彼らは髪の毛の部屋の入り口に着いたのだ。仮の神の子宮には髪の毛の部屋は15個あったが、今使われているのは5部屋のみだった。レザラクスの数が減っているのでそれで十分だったのだ。
そして、その部屋の壁には、握りこぶし大の穴がいくつも開いていて部屋同士はつながっていたから、本当は一部屋のみであるともいえた。髪の毛の部屋の前の廊下の天井は驚くほど低く、背の高いクスベーガルは、背中をせむしの様に丸めて潜り込んでいった。その後に、コーラルは続いた。

「リルファーがいるのは14番の部屋でしょ?」
「ああ、そうだ。」
 答えたクスベーガルの声はその廊下の狭さに似つかないくらい、くぐもって低く響いた。その廊下の全ての内側の表面には、黒く光る石が張り合わされていて、黒い巨大な蛇の皮を剥いだものを裏返したチューブの中を歩いていく気分だった。確かに誰でもここにいれば自殺したくなるだろうなと、コーラルは自分にも聞こえないくらいの声でつぶやいた。だが、彼はその呟きを聞き取ったのだろうか。這い擦る動きを止め今にもコーラルの方を振り返って非難の微笑を浴びせかけてくるのではないかと思えた。

しかし、その時クスベーガルは突然にうつろな目を、暗闇の中に無表情な火星のように浮かべていた。唇はいやに青ざめていた。それは、14号室を覗き込んだことによる驚きと恐れがそうさせたのだろうか。

「そうなんだ、この部屋のはずだったんだ。あの子がいるはずなのは。昨日まではきちんとイスの上に腰掛けていたのにな。この部屋の扉に開けられている穴の位置は結構高くて、あの子がイスに上に座ってくれなかったら、顔を見ることも出来ない。やっぱり、死んでるのに違いないんだ。どんなに呼びかけたって何にも答えようともしないということはだよ。僕がこんなところで死体を作り出したってことがみんなにばれたら、僕は一体どうしたら良いんだ。コーラル、頼むから教えてくれよ。」

 クスの声が最後には悲鳴に近いぐらいに、感傷的に張り上げられているのをうっとりして彼女は聞いた。「しかたないわ。一度封印を開けてみるしかない。」
 コーラルのその言葉は驚くほど、クスベーガルの心に打撃を与えたと見えて、彼は何も言わずに、人差し指と中指をしばらく痙攣させていた。「とにかく、私にも一度見せて。」
 彼女は、クスの肩をそっと押すと、彼は自分の体が塞いでいた道を開けた。彼は自分で私のことを呼んだのに今では、リルファーのことを見せたくないように思っているのに違いない。と、彼のあからさまにためらいがちな様子を見て感じた。

 コーラルは、その人間の素手で掘られたような跡のある、狭い横穴に身を捩じり込んでいった。穴の奥は途方もなく狭く、コーラルでさえ身を屈めなければならなかった。ランプで壁を照らすと穴が二つ見えた。一つは膝くらいの高さにあって、もし今も開いていたなら、床の辺りも見ることが出来ただろうが、木の板が押し込まれて、タールで塗り固めてあるために、ただの浅いくぼみになっていた。

 もう一つの穴は、幅の狭い横長の覗き穴で、彼はそこからいつも中を見ていたのだ。中でリルファーが一人で苦しんでいる様子を。でも、自分が彼と違うところなどありはしないのだということを、穴を覗き込むときの高揚した感覚を覚えることで、コーラルは気付いた。
 「リルファー、聞こえる?私はあなたがちゃんと聞こえているのが分かってる。あなたが無視しようとしているだけだって事はね。私には分かる、あなたがしようとしている事だって。」
 その時、彼女に何が一体分かったんだ?と、問いかける者がいたとしても、彼女はそれに答えられるはずはなかっただろう。しかし、そんなことに構っているわけにはいかなかったのだ。コーラルは、一度だけその分厚い扉の向こう側から、うめく声が聞こえた気がした。真っ暗な中を平気で泳ぎまわる、めくらの魚の吐息のような声。しばらくしてまた、つぶやくのが聞こえた。「クス、聞こえた?彼女、生きているみたいじゃない。」
 コーラルは少し振り返って、クスベーガルの方を見た。遠くの方で彼は、まるで自分のほうがすでに死んでしまっているような、顔色をして立っていた。彼にはコーラルの言ったことが理解することさえ出来なくなってしまったのだろうか。と、彼女が疑うぐらいの間を置いて、彼は答えた。「俺には聞こえなかったな。残念だけどさ。やっぱりあの子はもう死んでいるんだ。」
 長い髪の中で首を振っているようだった。それがランプの光の中で見えた。「それなら、僕だってもう死んでいるのと同じことじゃないか?コーラル、君だってそう思うだろ?」

Lezarakus
chapter 2
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彼はそうやって、自分の不運さを哀れんで欲しがっているのだろうか。「私はそうは思わない。クス、彼女だって、それにあなただってまだ生きているわよ。とにかく私が確かめるから、今すぐ扉の封印を解いて。」

 髪の毛の部屋の封印の解き方は、番人である彼と、仮の神の子宮の守人しか知らされていなかった。レザラクスを最後の成熟をさせるために入れる部屋であるそこから、成熟を中断して封印を解いて中を覗き、連れ出すことなど、めったに無いことだったから、別にリルファーに何の問題もなかったとしたら、封印を解いたことだってきっと、守人から隠し通せるに違いがないという考えでも彼の中に、浮かんだのだろうか、クスベーガルは急に冷静な表情さえ浮かべて、扉のほうに向かった。コーラルとすれ違いざまに、「悪いが、封印を解くところは見られてはいけないんだ。」と念を押して言った。

 コーラルはそのことは聞いてはいたが、封印を解く時のみではなく、この部屋に様子を見に来るときでさえ、彼はいつも一人だったから、そう実際に言われると少し意外な気さえがした。「ええ。分かっているわ。」彼女はそうクスベーガルの背中につぶやくと、数歩歩いて、廊下の角を曲がったところで、待つことにした。そこにはランプの光が届くはずはなかったので、赤っぽく湿った暗闇の中に包まれていく他はなかった。

 クスベーガルは、彼女の姿が、壁の向こう側に隠れたのを振り返って確認すると、初めて少しだけ、静かに息を吐いた。どうにかして、いつもの自分の気分を取り戻したいと思ったのだ。そうしてから、彼は口を大きく開けると、嘔吐したいときにそれを助けようとする時のように、右手の指を突っ込んだ。彼は自分の暖かな粘液の香りと感触を嫌になるほど味合わされたので、本当に気分が悪くなりそうな気がした。

 そして、しばらく手を動かしてから、口から手を離すと、人差し指と親指の間には、つやつやした唾液に守られている、白い歯が挟まれていた。それは偽物ではない彼自身の犬歯だ。それを使うことによってのみ、髪の毛の部屋の戸が開くのだった。

 クスベーガルはその歯をひっくり返すと、茶色く黄ばんだ根元をじっと見つめた。そこにはちゃんと彫刻刀で刻み付けられたような印が見えた。彼は瞬間的にではあったのだが、少年時代に初めて守人である、トワンス・ロフに会ったとき彼が右手を今日のクスベーガルと同じように喉の深いところまで差し込んできたのを思い出した。
クスベーガルは、それを払いのけたり嫌がったりもして当然だったのだが、突然彼の家を訪れた男の意味の分からない暴力に、クスベーガルは無抵抗に成らざるを得なかったのだ。
今考えるとそれが、神の守人の持つ魔力めいたものだったのだろうか。その時に初めて彼は自分の父親の名前を告げられ、その男の歯が髪の毛の部屋の鍵になっていたことを教えられたのだった。
その時のトワンスは亡霊のように青く光る皮膚をして彼の大学の裏にある彼の無料同然で借りた丸木小屋の中に当然のように座り、抜いたばかりのクスベーガルの歯の血を拭いながら、彼もその役目を負わざるを得ないことを見せ付けてきたのだ。もっともトワンスはそうとは言わずに「神の思考の現れ出た形には従わざるを得ないのですよ。」などと言ったのだろうが。しかし、今となってはどう言おうと関係無かった。ただ、彼の体に直接他のプラックス以上に神は興味を持ち直接手を下したのだと考えると、気味が悪かったし落ち着かなく感じたが、それはこれ以上の無い重要な事実である証拠にしかならなかった。
 彼の父親つまり今の彼自身の名前はやはりクスベーガルだった。彼はまだ、プラックスになって間が無かったが、大学を辞め仮の神の子宮に行く事を決めた。


 彼はほっと白く曇った息をつくと屈み込んで、髪の毛の部屋の扉をランプで照らした。そこにはさっきコーラルが見た、ずいぶん昔に閉じられてしまったのであろう覗き穴があった。
彼は実際に100年前にも、また数百年前にもその覗き穴をふさぐ岩を、噛み付いて出来た小さな傷跡をそうやって眺めていたはずだった。ただ、今の彼の姿に生まれ変わった時だけ、もうそのことは思い出さないというだけなのだが。
それから彼はそのまだ、自分の唾液で光り輝く歯の尖った先を、彼の祖先たちと同じように、岩の肌の中にねじ込んだ。
「俺はひょっとすると、秘密を守りたいわけじゃなくて、こんな静かな嫌らしい感覚をコーラルに馬鹿にされたくなかっただけかもしれないな。彼女なら、たとえ何も言わなかったとしても、今の歯をねじりこんでいく様子を見たら、気味悪く思うに違いない。」
 だが、クスベーガルはその岩の肌がまだ、自分には柔らかいレザラクスの肌に噛み付いているような喜びを与えさせてくれたので、鋭い快感すら覚えた。

 確かに、その感情を感じた瞬間に、今までなら封印が解けて、扉が音も立てずに開いているはずだった。彼自身にも開いた瞬間なんて分からないくらいの間に開いているのだ。

 しかし、今日は何かおかしかった。彼が快感を感じた瞬間ではなく、その後にいつも来るのを待ち構えている、快感を感じたこと自身に対する嫌な怖気を感じ始めたときに、今日は扉が開いたのだった。それは彼にとって悪夢を見ている最中に起こされるのと同じことだった。

 だから、彼は中を覗いて、リルファーがどのようにやつれ果てて死んでいるかを確かめる気にはさらさらなれなかった。「やっぱり、コーラルを連れて来て正解だったな。あいつなら、たぶん中を見て、それで結果がどんな風であったとしても、誰にも俺が最初に中を見なかったことを黙っといてくれるはずだ。」

 彼は、後ろにゆっくり振り返ると、コーラルの姿を探すために、壁の角を曲がった。後はリルファーがもう死んでいたとしても、守人に頼めば何とかしてくれるはずだ。「死んでいたとしても、」と、彼は口の中でもう一度繰り返してみた。なんて不思議な言葉なんだろうか。彼は自分たちの種族、レザラクスとプラックスが、実際に生身の体をさらして死んでいるのなんて見たことはなかった。

昔、神官養成所にいた時に、黒いベールで何重にも、あばたの顔を包み隠していた教官が、自分たちが死を捨てたことに対する神聖性を、低い声でつぶやいていたけれども、それは返って、自分がこれから見るはずの、髪の毛の部屋の長いふわふわした黒いベッドに包まれた死体を見ることを思うと、なぜか吐き気にも似た喜びすら彼の中に引き起こした。だが、それもリルファーの死体の奇妙さが彼の予想の範囲内だったらの話だった。そして、彼にはそうではない予感がしていたのだ。クスベーガルはそんな物を見てしまったら、自分だってそれと同じように腐っていかざるを得ないような子供染みた空想を自分の中に見つけたが、ただそれを馬鹿にして笑うだけでは収まりきれない恐怖がその中には隠されていた。

 廊下の角を曲がってもコーラルの姿が見つからないので、彼はランプを持ち上げて、コーラル。と、低くつぶやいてみた。するとすぐ耳元で、足音もせずに、「ここよ。」と彼女は答えた。
 コーラルにはクスベーガルが唇を歯で噛んでいるのがはっきり見えた。「私、なんだか暇だったから、辺りを見ていたのよ。それでもまだ来なかったから、そこの床にしゃがんでたの。」「そうか、君はこんな真っ暗闇でも目が見えるとでも言うのかい?でも、そんなことはどっちだっていい。扉が開いたから中を見てみてくれないか。」クスは、彼女が嫌がるんじゃないかとも思えたので、最後の言葉を聞き取りづらいぐらいにそっと言った。

 しかし、彼女は「分ったわ。ランプを貸して。」とつぶやくと、穴の中に潜り込んで行った。ここに入るのは二度目だった。だけど、前にここに来たときにはこんなふうにして、扉の穴を潜り込んだ記憶はなかった。どうせ、眠らされている内に運び込まれたのだろう。
「リルファー、大丈夫?返事が出来たらしてみて。」
コーラルはのたうつような、膝の下まで生え伸びている、髪の毛の部屋に生える、黒い茂みが肌にちくちく食い込んでくるのを感じながら、それを踏みしめて数歩前に進んだ。前に彼女がレザラクスだったとき、その毛はそれほどまでに不快でもなく、全裸の彼女を優しく包み込んでいたように感じていた。しかし、今となってみると、そんなものにしか優しさを見出せない状態にさせられていたのに気づいた。

 彼女はすねを撫でてから、顔の近くまで手を持ち上げてランプで照らすと、そこにはうっすら血がついているのが見えた。ランプの光の中ではその血は異様なくらい温かく思えた。
リルファーは黒い茂みの中に倒れていて、隠れてしまっているのかもしれない。コーラルは仕方なしに、屈んで右手を突き出すと、黒く濡れた毛の茂みの中をまさぐり始めた。地面は動物の皮膚のように熱気を持っていて、びくりと動くのではないかというくらいだった。そして、恐ろしく甘い人の香りが地面の近くにあった。一度も掃除されたことのないはずの、自分たちの民族すべてが一度はした、糞尿の臭いがすえているのとは違っていた。

 そうやって手を使って探し始めると、彼女は部屋が意外にも広いことに気が付いた。自分が閉じ込められていたときにはこの世で一番狭苦しい場所に感じていたのだったが。
そして、その重油のような見えない手触りの中に、寝そべっているはずのリルファーの死んだ体の手触りが急に飛び込んできたら、どう感じるだろうか?と考えた瞬間、急にコーラルは胃の痛くなるような薄気味悪さを感じた。クスと二人で探したほうが良いのではないだろうか。

 いいや、あいつはそれが嫌だから、私を連れてきたんだわ。今すぐ守人に知らせたほうが良いだろう。でも、さっき、リルファーの息をする音が私には聞こえた。だったら、弱っている彼女をこのままここに置いていく訳にはいかない。

 かなりの時間が過ぎたのか、彼女の手のひらが傷だらけになって、ずきずきうずきだしたころ、部屋に生えている野獣のような髪の毛とはまったく違ったふわりとした感触に指が触れた。
人間の女の子の髪だろうか。ランプで照らすとそこだけ柔らかい灰色の流れがあった。

「ああ。リルファーの髪の毛があんなに長くて、ふわふわしていて本当に良かった。」そうでなかったら、見つかるはずはなかっただろう。
コーラルは手を伸ばすとその髪の毛を掻き分けて、恐ろしく黒い鋭い草むらの中から、ゆっくり彼女の体を抱き起こした。確かにそれはその中から産まれてきたように見えた。彼女の顔や体には不思議なくらい、傷も何もついていないようだった。彼女はコーラルに起こされたのに気がついて少し目を開けると、あなたもレザラクスなのね。と、つぶやくと安心したようにまた気を失ってしまった。コーラルは彼女が目を閉じた後に、「確かに私はまだ、レザラクスのままよ。」と、はっきり言った。 

別にリルファーにだけ聞かせるためにそう言ったのではなかった。彼女はそれから、腰のベルトにランプをぶら下げて固定してから、リルファーを肩に担ぐと、入り口の穴があるだろう方向に静かに歩き始めた。「この汚れた白衣は捨てるしかないな。」と、つぶやいてから。

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