二章 髪の毛の部屋の中のリルファー
コーラル・グラズセンが第三研究室と銘打たれた、薄汚い休憩室に戻ったとき、中にはルゼスの姿はなかった。ただその一分前には彼が待ち構えていたのだろうという事が、部屋の中の湿り気と匂いから分かった。
彼はいつも口臭を消すための安っぽいタブレットを口に含んでいて、その匂いが部屋にしていたのだ。
彼女は自分に一年前にここに来たときから割り当てられている、ぬめぬめと安っぽいニスが光る木のイスに座った。背もたれのあばらが一本欠いてしまっているので、後ろに寄りかかることは出来ないのだが、ルゼスがついさっきまで腰掛けていたくぼみのはっきり付いている、汗の染み付いたソファーになど座るわけにはいかなかった。
たとえ今は彼は部屋にいなくてもすぐに帰ってくるかもしれなかったからでもあった。彼女がそのソファーに座ることがあるとすれば、それは彼がいて、彼がそこにコーラルを呼んだ時だけだった。もはや、生殖と無関係になったその行為の時だけ彼女はそのソファーに寝転ぶことを許されるのだ。そのことは彼女に嫌悪感しか感じさせなかったのをルゼスは気付いているのだろうか。
彼女が「仮の神の子宮」と呼ばれるこの場所に配属されてきたのは、彼女がプラックスになってから3年経ったあとだった。
それまでの間は神官養成院にいて生命神学の勉強をしていた。彼女はまだ後数年はレザラクスである女の姿のままでいようと決心していた。普通は、死の子供を宿し、レザラクスを産んだ後は、すぐにでも男性化促進剤を飲んで男の姿になろうとするのだが、コーラルはそのベルタラスクスと呼ばれる薬を飲むことを拒んだのだった。
教官の神官たちも内心馬鹿にしていたのだろうが、赤土の本に書かれているままに振舞おうとすればそうするのが正しいともいえたので、彼女のことを無視していた。
そして確かに彼女は優秀な成績だったので、唯一の聖職といえる仮の神の子宮の神官の一人に彼女を加えたのだった。しかし、彼女以外にそこへの配属を望むものなどだれもいはしなかっただろうということも、事実だった。
そうとはいえ、彼女の聖女とやらの信心から、その職に就きたいと思っている訳ではないということを、見抜ける教官の神官がいただろうか?
彼女が部屋に帰るまでの廊下はいつも通り冷たく湿っていたから、中はむっとするぐらい暑く感じた。ガラス張りの温室の中に急に入った時のように。
しかし、それにもやっと慣れたころに、部屋の戸が狭く開いて、冷たくて重い風が息を吹き込むようにして一瞬だけ入った。そして、ぶ厚い戸の隙間から、押しつぶされる前にルゼスが身を滑り込ませてきた。
「なんだ、コーラル。戻っていたのか。君はリルファーの所に様子を見に行っていたのだと思っていたんだが。」
「いいえ、彼女の所には行っていないわ。それでどうだったの彼女の容態は?あなたは見たんでしょ。」
「確かに髪の毛の部屋に行ってきたよ。少しの間覗き窓から見ただけだからなんとも言えないけど、第三期にもう入っているみたいだった。でもとにかく、あいつの面倒をみるのはクスベーガルの役目なんだから、奴がなんとでも好きにやればいいんだ。」
ルゼスは少しの間言葉を切っていた。その間に自分の今言った言葉が、クスベーガルの中に浸透していくかのように。「だけど、そうなった以上はこっちもすぐにでも死の子供を使える状態にしなくてはいけない。大体、クスにレザラクスを早く成熟させてくれって、頼んだのはこっちのほうなんだからな。」
コーラルは、その言葉に何も反応しないように黙って彼のことを見た。彼女は必要以上に死の子供を薬物操作するのを何よりも嫌っているのだ。それとも彼女が嫌っているのは自分の事かとも、ルゼスは感じた。彼はそのような自分に対する他人の嫌悪感を快感に感じるタイプなのだろう。彼は灰色に短く刈り上げた髪の毛を心地よさそうに2度かき上げて見せた。そして、彼がゆっくりともう一度口を開いた瞬間にコーラルは鋭く言った。
「もう何もしなくても25番があと3日で成熟するはずよ。」「そうか。それなら安心したよ。俺たちはただ待っていれば良いって訳だな。俺ももうあの気色の悪い奴に、真っ黒いグメルズスの注射をチイチイ鳴いてる背中に、打ち込んでばかりいるのなんてうんざりだからな。」
そんなはずはないだろう、あなたは毒薬の注射を打ったりする瞬間を生涯の中でもっとも愛しているのは間違いないことだと今すぐにでも言ってやりたかったが、彼女はいつも通りその感情を無視した。「とにかく今夜も別に変わったこともないみたいだし、俺は部屋に帰るよ。」
彼はコーラルについて来てほしいという、見え透いた目付きをして見せた。彼にそのようにあからさまに意思表示されると彼女はいつものように、背中に怖気を感じた。それは快感に似ているともいうことも出来るだろうが。
「私はここにいるわ。さっきの観察記録もまだ書いていないし。」
ルゼスは白衣を脱いで壁の鉤に掛けると、髪の色と同じ灰色の皺だらけのコートをはおると、お疲れ様と低くつぶやいて部屋を出た。最後の一瞬に彼女のいる部屋の空気を肺に覚え込ませるために、深く息を吸い込んでから。
それは、彼女のいないところにはまるで空気が存在すらしていないとでもいう様なそぶりだった。しかし、コーラルはそんな空気なら吸わなくても自分は生きていけるはずだ。と、口の中でつぶやくと、机に座って、まだ死の子供たちの匂いの残るノートを広げた。自分も将来、そんないじけた胎児たちに姿を変えるのかと何度考えても、素直にそのことを納得するのは、非常に難しい問題だった。
それは、自分がかつてレザラクスだった時に、死の子供を自分のヴァギナの中に潜り込まさなくてはならないと教育されていたのを鵜呑みに出来なかったのと同じであることに、コーラルは半ば気付いていた。
しばらくして、コーラルは誰かに肩を揺さぶられるのを感じた。そして彼女を呼ぶ声はだんだん大きくなって耐えられないぐらいになった。やっと目蓋を開けたコーラルは自分が机の上で眠っていたことに気付いた。
「おい、コーラル。悪いが起きてくれ。なんだか嫌な事が起きた気がするんだ。」
「何かあったの、クスベーガル?」
彼のもじゃもじゃした赤くて長い髪の毛が、コーラルの方に身を乗り出しているために、目の前に房になって垂れ下がった。それで痩せぎすの彼の顔や首筋が見えなかったのだが、その中で精気を失ってもなお薄茶色の目が光っていた。
それは常に夢見心地の目だったが、彼が口を開くと肉色の歯茎がはっきりと見えた。
彼女は彼が話そうとしている、目を覚まさなくては。と、コーラルは少し頭を振った。「とにかく、髪の毛の部屋に一緒に来てくれないか。僕には怖くてどうにも出来ない。」
「ねえ、ちょっと待って、リルファーになにかあったの?落着いて見て来た事を話してみて。場合によっては神官医を連れてこないといけないし。」
彼女はそう言いながら、神官医が容易にはここに来たがらないだろうということを思い出していた。彼らにとってもここは嫌な記憶のある場所に過ぎないのだから。
しかし、クスベーガルは強く言葉をさえぎってあえいだ。「ああ、でもどうしようもないんだ。とにかく、すまない、早く来てくれ。」コーラルはクスに手を乱暴に引かれて立ち上がると、かすかにめまいがした。
「わかったわ、クス。行くから引っ張らないで。」
彼がこれまでの短い間に何度もうろたえているのをコーラルは見てきたが、今度はいつもと違う様に見えた。
急いで廊下に出ると、冷たい空気が彼女の胸を締め付けた。白衣を着るのを忘れていた訳ではないのだが、暗い石造りの廊下は窓が無くても、いつも風が吹いているのだった。
コーラルの前に立ち、すばやく大股で進んでいるクスベの髪の毛が、赤く激しく揺れている様子を目で追いかけながら、神の子宮の守人を呼んでくるべきではないかと声をかけようとも思ったが、その髪の毛の赤い、汗に濡れたきらめきが、今彼女が何を言っても彼には聞こえないだろうということを予感させた。
クスベーガルは中央の大廊下にたどり着くと、左側に曲がった。その細長い建物の西側部分に髪の毛の部屋がある。それは死の子供のいた部屋とちょうど反対側だった。コーラルには自分が死の子供から遠ざかって、髪の毛の部屋に近づきつつあるのが、匂いの変化で分かる気さえした。クスベーガルは気付きはしないだろうが、彼女は自分の中にかつてあった、一度だけの初潮の匂いを思い出していたのだ。髪の毛の部屋の中で、それぞれのレザラクスたちが一度ずつ流す血の匂いは、想像以上の悪臭を放ち続ける。そして、それのみを養分として、部屋の中に生える神の髪の毛は生きながらえているのだ。
コーラルは仮の神の子宮に来た以上、また髪の毛の部屋に入らざるを得ない時だってあるに違いないと思っていたが、今日その時が来たことを別に後悔しているわけではなかった。ただ、その中の悪臭を思い出すことがたまらなく嫌なだけだったのだ。「ああ、せめてまだ、生きてさえいてくれたら。」クスはつぶやいた。
「え?彼女、死にそうなの?」
その声に驚いてクスベーガルはすばやく後ろを振り返った。それは彼女が後ろを付いて来ていることさえ忘れているようにさえ見える驚きようだった。彼はそのまま無言で前を向くと髪の毛のすだれの向こうから、ああ、大丈夫だ。心配するな。とつぶやいてまた歩き始めた。その声は聞き取り辛くしゃがれていた。
確かに、ここ百年間で髪の毛の部屋の中でレザラクスは死んだことは一度も無かったのだ。もし、そうなったら、大変なことになるな。と、コーラルは半ば他人事のように思った。それとも、自分がかつて髪の毛の部屋の中に監禁されていたときに、自殺でもしてやっていたら、大騒ぎになっていたのだろうか、とも空想していた。
その時、目の前にいた、クスが急に立ち止まったので、彼女はその背中にぶつかりそうになってしまった。彼らは髪の毛の部屋の入り口に着いたのだ。仮の神の子宮には髪の毛の部屋は15個あったが、今使われているのは5部屋のみだった。レザラクスの数が減っているのでそれで十分だったのだ。
そして、その部屋の壁には、握りこぶし大の穴がいくつも開いていて部屋同士はつながっていたから、本当は一部屋のみであるともいえた。髪の毛の部屋の前の廊下の天井は驚くほど低く、背の高いクスベーガルは、背中をせむしの様に丸めて潜り込んでいった。その後に、コーラルは続いた。
「リルファーがいるのは14番の部屋でしょ?」
「ああ、そうだ。」
答えたクスベーガルの声はその廊下の狭さに似つかないくらい、くぐもって低く響いた。その廊下の全ての内側の表面には、黒く光る石が張り合わされていて、黒い巨大な蛇の皮を剥いだものを裏返したチューブの中を歩いていく気分だった。確かに誰でもここにいれば自殺したくなるだろうなと、コーラルは自分にも聞こえないくらいの声でつぶやいた。だが、彼はその呟きを聞き取ったのだろうか。這い擦る動きを止め今にもコーラルの方を振り返って非難の微笑を浴びせかけてくるのではないかと思えた。
しかし、その時クスベーガルは突然にうつろな目を、暗闇の中に無表情な火星のように浮かべていた。唇はいやに青ざめていた。それは、14号室を覗き込んだことによる驚きと恐れがそうさせたのだろうか。
「そうなんだ、この部屋のはずだったんだ。あの子がいるはずなのは。昨日まではきちんとイスの上に腰掛けていたのにな。この部屋の扉に開けられている穴の位置は結構高くて、あの子がイスに上に座ってくれなかったら、顔を見ることも出来ない。やっぱり、死んでるのに違いないんだ。どんなに呼びかけたって何にも答えようともしないということはだよ。僕がこんなところで死体を作り出したってことがみんなにばれたら、僕は一体どうしたら良いんだ。コーラル、頼むから教えてくれよ。」
クスの声が最後には悲鳴に近いぐらいに、感傷的に張り上げられているのをうっとりして彼女は聞いた。「しかたないわ。一度封印を開けてみるしかない。」
コーラルのその言葉は驚くほど、クスベーガルの心に打撃を与えたと見えて、彼は何も言わずに、人差し指と中指をしばらく痙攣させていた。「とにかく、私にも一度見せて。」
彼女は、クスの肩をそっと押すと、彼は自分の体が塞いでいた道を開けた。彼は自分で私のことを呼んだのに今では、リルファーのことを見せたくないように思っているのに違いない。と、彼のあからさまにためらいがちな様子を見て感じた。
コーラルは、その人間の素手で掘られたような跡のある、狭い横穴に身を捩じり込んでいった。穴の奥は途方もなく狭く、コーラルでさえ身を屈めなければならなかった。ランプで壁を照らすと穴が二つ見えた。一つは膝くらいの高さにあって、もし今も開いていたなら、床の辺りも見ることが出来ただろうが、木の板が押し込まれて、タールで塗り固めてあるために、ただの浅いくぼみになっていた。
もう一つの穴は、幅の狭い横長の覗き穴で、彼はそこからいつも中を見ていたのだ。中でリルファーが一人で苦しんでいる様子を。でも、自分が彼と違うところなどありはしないのだということを、穴を覗き込むときの高揚した感覚を覚えることで、コーラルは気付いた。
「リルファー、聞こえる?私はあなたがちゃんと聞こえているのが分かってる。あなたが無視しようとしているだけだって事はね。私には分かる、あなたがしようとしている事だって。」
その時、彼女に何が一体分かったんだ?と、問いかける者がいたとしても、彼女はそれに答えられるはずはなかっただろう。しかし、そんなことに構っているわけにはいかなかったのだ。コーラルは、一度だけその分厚い扉の向こう側から、うめく声が聞こえた気がした。真っ暗な中を平気で泳ぎまわる、めくらの魚の吐息のような声。しばらくしてまた、つぶやくのが聞こえた。「クス、聞こえた?彼女、生きているみたいじゃない。」
コーラルは少し振り返って、クスベーガルの方を見た。遠くの方で彼は、まるで自分のほうがすでに死んでしまっているような、顔色をして立っていた。彼にはコーラルの言ったことが理解することさえ出来なくなってしまったのだろうか。と、彼女が疑うぐらいの間を置いて、彼は答えた。「俺には聞こえなかったな。残念だけどさ。やっぱりあの子はもう死んでいるんだ。」
長い髪の中で首を振っているようだった。それがランプの光の中で見えた。「それなら、僕だってもう死んでいるのと同じことじゃないか?コーラル、君だってそう思うだろ?」